紅き月夜に 永遠の想い~運命に導かれた月夜の出逢い~
騎士団長と明けない夜①(アレク視点)
「やあ、アレクシオ。今日の会議はずいぶんと時間がかかったようだね」
週に一度行われる定例会議を終え、寄宿舎にある自室へ戻ろうとしたアレクシオは、背後から飛んできた自分を呼び止める声に、ついうっかり立ち止まってしまい、その直後、自分が取ったその行動を思いっきり後悔した。
振り返って顔を確認しなくとも、呼び止めた声の主が、誰であるのかはすぐに分かる。
ヴィクトール・レザ・バルディーニ。
数多くの成功を収め、その実績と貢献が認められ、つい先日、晴れて卿相となった男だ。
国の重鎮であるヴィクトールが、わざわざ騎士団施設にまで赴き、自分を呼び止めたということは、何か重要な要件があってのことだろう。
だがしかしこれまでの過去を振り返ってみても、ヴィクトールが持ち込んできた話に、良いものがあった試しなど、一度たりもない。
今なら聞こえなかったふりをして、逃げ失せることだってできる。
どこからか聞こえてきた悪魔の囁きに逆らうことなく、その場から立ち去ろうとしたアレクシオだったが、実行に移す一歩手前で、どうにかこうにか、その衝動を抑えこむと、アレクシオは、はあ、と溜め息を吐いた。
つきり、と痛み始めたこめかみを指で押さえつつ、声がした方を振り返れば、壁に寄り掛かるように突っ立ったまま、組んでいた腕を解くと、ヴィクトールは片手をひらひらとさせて、やあ、と薄く笑う。
「ヴィクトール卿相殿が、騎士団施設に足を運ぶとは珍しいではありませんか。今日は何の用があってこちらへ?」
「ああ、うん。出かけたついでに、ちょっと立ち寄ってみただけだよ」
ぴきり、と引き攣りそうになる表情筋を抑えながら、心にもない愛想笑いを浮かべて、何しに来たんだこのやろう。と問いかけてみれば、ヴィクトールは何とも軽い口調で答える。
「そうでしたか。では私は急いでおりますので、これで失礼させて戴きます」
もちろん、アレクシオとて、ヴィクトールが散策のついでに、ふらり、と立ち寄っただけ、などと、本気で思っているわけではない。が、ヴィクトールの調子に合わせて、下らない茶番劇につき合ってやるほど、暇ではないし、寛容でもない。
これ幸いと手短に会話を終わらせると、踵を返して、とっととその場から撤退しようとしたアレクシオだったが。
「ああ、そうだ。その後の進展はどんな感じなんだい? アレクシオ」
まるで雑談でもするかのような調子で、しれっと本題を切り出してきたヴィクトールを振り仰ぎつつ、アレクシオは何の話だと言わんばかり、小さく首を傾げて見せた。
「――……進展とは、いったい何の話で?」
「いやだなあ。惚けても無駄だよ、アレクシオ。もちろん例の異端者のことに決まっているじゃないか」
「ああ、そちらの話でしたか。抱えている案件が多いもので、どのことを言われているのか、さっぱり分かりませんでしたよ、ヴィクトール卿相殿」
異端者絡みの件であることは端から分かっていたが、素知らぬふりをして、皮肉を込めて言い返してやれば、ヴィクトールは苦々しい表情を浮かべると、ちっ、と舌打ちをして、悪態を吐く。
ざまあみろ、と、その様子を横目で流し見つつ、アレクシオは次なる手を打ちに出た。
「残念ながら、その件でしたら、ほぼ膠着状態と言ってよいかと」
「そうか。あれ以来、進展はないのか。でも不思議だと思わないかい? 一月半前、確かに月は消えたんだよね。ほんの一瞬の出来事だったけれど、多くの民がその瞬間を目撃している。もちろんアレクシオも見たんだろう?」
「ええ、もちろん、見ましたよ。私はオルレーヌの丘からでしたが。多くの民が証言している通り、月が姿を消したのは、瞬き一つできるか、できないかくらいの、わずかな時間でしたから、見逃した人も多いでしょう。ヴィクトール卿相殿は、あの貴重な瞬間を、ご覧になられたのですか?」
「それが色々と忙しくてね。残念なことに見逃してしまったよ」
「そうでしたか。ですが月が消えたのは一瞬のこと。見逃しても仕方のないことでしょう。すでに報告にも上げていますが、天文学に精通した学者の多くが、あれは月蝕とはまた別の現象では、との見解を示しているようですし、まだその時期に達していないだけなのではないでしょうか? もっとも遥か昔に残された予言書に記述されたことですから、異端者が実在しているのかすら怪しげなものですが」
異端者の存在そのものを否定するような発言を、そこはかとなく匂わせながら、アレクシオは一月半近く前に、オルレーヌの丘で目にした光景を、ふと思い返していた。
あの日、禍々しい色をした月が、空から消えたことは、観測をしていた学者を始め、多くの民が目撃したことだ。
だが、しかし、不思議なことに、そのあと、更に起きた異変に関しては、誰一人として目撃した、という話を聞かないのだ。
それはまるでアレクシオ以外の全ての人々の記憶が消し去られたか、あるいは、全ての人々の時間が停止していたとしか考えられないほどに。
まだその時期に達していないだけ、と口にしたが、おそらくこの先、どれほどの時間を割いて、その時が来るのを待っていたとしても、月が完全に姿を消すことなど、二度と起こらないだろう。
一月半前、琥珀色の淡い月明かりに導かれるように、舞い落ちてきた彼女が、本当に異端者であったならば。
「異変前に顕れるという兆候も、ここ最近は確認されていませんし、何と言っても自然現象が成す術ですから、我々にできることは日々観測し、見守ることくらいでしょう」
「まあそう言われれば、それまでのことなんだけどね。ああ、そういや、急いでいるんだっけ? 悪いね、足を止めて。用件は終わったから、もう行ってもいいよ」
「そうですか。では私はこれで」
過去の経験から顧みて、更にとんでもないことを言いだすのではなかろうか、と身構えていたが、どうやら本当に何かのついでに立ち寄っただけらしい。
まるで犬でも追い払うかのような仕種を見せながら、軽口を叩いたヴィクトールに、お前は何様だ、と不快感を顕わにしつつ、今度という今度こそ、とっとと退散しようと心に固く決め、踵を返したアレクシオだったが。
「ああ、そうだ。そういえば、面白い話を聞いたよ、アレクシオ」
一度ならず、二度までも、同じような手法で、ヴィクトールが引き留めにかかる。
最早、嫌がらせとしか思えないヴィクトールのそれに、アレクシオは無視を決め込んで立ち去ろうとした。が。
「ノヴェム教会に隣接する施設に、ちょっと変わった子が入ったらしいね。ちょうど一月半前、月に異変が起きた頃くらいに。なんでも黒い髪に黒い瞳を持つ異界人だそうじゃないか。街ではちょっとした評判になっているようだけど、アレクシオは知っているのかい?」
些末事でも語るかのように軽い調子で紡がれたそれに、アレクシオは、ぴくり、と僅かに身動いだ。
(――……黒い瞳を持っている時点で、好奇の目に曝されるであろうことは予想していたが、これほど早く重鎮どもの耳に情報が入るとは計算外だったな)
人の噂というのは侮れないものだな、などと思いつつ、さあ、どうしたものか、とヴィクトールに背を向けたまま、次の一手を打つべく、アレクシオは思考を巡らせた。
用件は終わったとヴィクトール自身が言ったのだから、そのまま立ち去ってやってもいいのだが、さっきから始終、こちらの腹を探るような物言いをしてくる、ヴィクトールの胡散臭い態度が、どうにも気に食わない。
しばしの間、逡巡していたアレクシオは、頭の中である程度、策を纏めると、三度ヴィクトールの方を振り返った。
「ええ、もちろん、知っていますよ。彼女とは何度か顔を合わせて、話もしていますから」
「ふーん、そうなんだ。ねえ、アレクシオ。僕もその彼女とやらに興味があるんだ。一度会わせてもらえないかな」
半開きの唇に薄っぺらい笑みを載せて、ヴィクトールがそんなことを言い出す。
やはりそう来たか、とヴィクトールの言動をあらかた見切っていたアレクシオは、
「もちろん、構いませんよ。ヴィクトール卿相殿」
躊躇することなく、即座にそう答えると、彫刻のようなその美貌に挑発的な笑みを瞬かせた。
週に一度行われる定例会議を終え、寄宿舎にある自室へ戻ろうとしたアレクシオは、背後から飛んできた自分を呼び止める声に、ついうっかり立ち止まってしまい、その直後、自分が取ったその行動を思いっきり後悔した。
振り返って顔を確認しなくとも、呼び止めた声の主が、誰であるのかはすぐに分かる。
ヴィクトール・レザ・バルディーニ。
数多くの成功を収め、その実績と貢献が認められ、つい先日、晴れて卿相となった男だ。
国の重鎮であるヴィクトールが、わざわざ騎士団施設にまで赴き、自分を呼び止めたということは、何か重要な要件があってのことだろう。
だがしかしこれまでの過去を振り返ってみても、ヴィクトールが持ち込んできた話に、良いものがあった試しなど、一度たりもない。
今なら聞こえなかったふりをして、逃げ失せることだってできる。
どこからか聞こえてきた悪魔の囁きに逆らうことなく、その場から立ち去ろうとしたアレクシオだったが、実行に移す一歩手前で、どうにかこうにか、その衝動を抑えこむと、アレクシオは、はあ、と溜め息を吐いた。
つきり、と痛み始めたこめかみを指で押さえつつ、声がした方を振り返れば、壁に寄り掛かるように突っ立ったまま、組んでいた腕を解くと、ヴィクトールは片手をひらひらとさせて、やあ、と薄く笑う。
「ヴィクトール卿相殿が、騎士団施設に足を運ぶとは珍しいではありませんか。今日は何の用があってこちらへ?」
「ああ、うん。出かけたついでに、ちょっと立ち寄ってみただけだよ」
ぴきり、と引き攣りそうになる表情筋を抑えながら、心にもない愛想笑いを浮かべて、何しに来たんだこのやろう。と問いかけてみれば、ヴィクトールは何とも軽い口調で答える。
「そうでしたか。では私は急いでおりますので、これで失礼させて戴きます」
もちろん、アレクシオとて、ヴィクトールが散策のついでに、ふらり、と立ち寄っただけ、などと、本気で思っているわけではない。が、ヴィクトールの調子に合わせて、下らない茶番劇につき合ってやるほど、暇ではないし、寛容でもない。
これ幸いと手短に会話を終わらせると、踵を返して、とっととその場から撤退しようとしたアレクシオだったが。
「ああ、そうだ。その後の進展はどんな感じなんだい? アレクシオ」
まるで雑談でもするかのような調子で、しれっと本題を切り出してきたヴィクトールを振り仰ぎつつ、アレクシオは何の話だと言わんばかり、小さく首を傾げて見せた。
「――……進展とは、いったい何の話で?」
「いやだなあ。惚けても無駄だよ、アレクシオ。もちろん例の異端者のことに決まっているじゃないか」
「ああ、そちらの話でしたか。抱えている案件が多いもので、どのことを言われているのか、さっぱり分かりませんでしたよ、ヴィクトール卿相殿」
異端者絡みの件であることは端から分かっていたが、素知らぬふりをして、皮肉を込めて言い返してやれば、ヴィクトールは苦々しい表情を浮かべると、ちっ、と舌打ちをして、悪態を吐く。
ざまあみろ、と、その様子を横目で流し見つつ、アレクシオは次なる手を打ちに出た。
「残念ながら、その件でしたら、ほぼ膠着状態と言ってよいかと」
「そうか。あれ以来、進展はないのか。でも不思議だと思わないかい? 一月半前、確かに月は消えたんだよね。ほんの一瞬の出来事だったけれど、多くの民がその瞬間を目撃している。もちろんアレクシオも見たんだろう?」
「ええ、もちろん、見ましたよ。私はオルレーヌの丘からでしたが。多くの民が証言している通り、月が姿を消したのは、瞬き一つできるか、できないかくらいの、わずかな時間でしたから、見逃した人も多いでしょう。ヴィクトール卿相殿は、あの貴重な瞬間を、ご覧になられたのですか?」
「それが色々と忙しくてね。残念なことに見逃してしまったよ」
「そうでしたか。ですが月が消えたのは一瞬のこと。見逃しても仕方のないことでしょう。すでに報告にも上げていますが、天文学に精通した学者の多くが、あれは月蝕とはまた別の現象では、との見解を示しているようですし、まだその時期に達していないだけなのではないでしょうか? もっとも遥か昔に残された予言書に記述されたことですから、異端者が実在しているのかすら怪しげなものですが」
異端者の存在そのものを否定するような発言を、そこはかとなく匂わせながら、アレクシオは一月半近く前に、オルレーヌの丘で目にした光景を、ふと思い返していた。
あの日、禍々しい色をした月が、空から消えたことは、観測をしていた学者を始め、多くの民が目撃したことだ。
だが、しかし、不思議なことに、そのあと、更に起きた異変に関しては、誰一人として目撃した、という話を聞かないのだ。
それはまるでアレクシオ以外の全ての人々の記憶が消し去られたか、あるいは、全ての人々の時間が停止していたとしか考えられないほどに。
まだその時期に達していないだけ、と口にしたが、おそらくこの先、どれほどの時間を割いて、その時が来るのを待っていたとしても、月が完全に姿を消すことなど、二度と起こらないだろう。
一月半前、琥珀色の淡い月明かりに導かれるように、舞い落ちてきた彼女が、本当に異端者であったならば。
「異変前に顕れるという兆候も、ここ最近は確認されていませんし、何と言っても自然現象が成す術ですから、我々にできることは日々観測し、見守ることくらいでしょう」
「まあそう言われれば、それまでのことなんだけどね。ああ、そういや、急いでいるんだっけ? 悪いね、足を止めて。用件は終わったから、もう行ってもいいよ」
「そうですか。では私はこれで」
過去の経験から顧みて、更にとんでもないことを言いだすのではなかろうか、と身構えていたが、どうやら本当に何かのついでに立ち寄っただけらしい。
まるで犬でも追い払うかのような仕種を見せながら、軽口を叩いたヴィクトールに、お前は何様だ、と不快感を顕わにしつつ、今度という今度こそ、とっとと退散しようと心に固く決め、踵を返したアレクシオだったが。
「ああ、そうだ。そういえば、面白い話を聞いたよ、アレクシオ」
一度ならず、二度までも、同じような手法で、ヴィクトールが引き留めにかかる。
最早、嫌がらせとしか思えないヴィクトールのそれに、アレクシオは無視を決め込んで立ち去ろうとした。が。
「ノヴェム教会に隣接する施設に、ちょっと変わった子が入ったらしいね。ちょうど一月半前、月に異変が起きた頃くらいに。なんでも黒い髪に黒い瞳を持つ異界人だそうじゃないか。街ではちょっとした評判になっているようだけど、アレクシオは知っているのかい?」
些末事でも語るかのように軽い調子で紡がれたそれに、アレクシオは、ぴくり、と僅かに身動いだ。
(――……黒い瞳を持っている時点で、好奇の目に曝されるであろうことは予想していたが、これほど早く重鎮どもの耳に情報が入るとは計算外だったな)
人の噂というのは侮れないものだな、などと思いつつ、さあ、どうしたものか、とヴィクトールに背を向けたまま、次の一手を打つべく、アレクシオは思考を巡らせた。
用件は終わったとヴィクトール自身が言ったのだから、そのまま立ち去ってやってもいいのだが、さっきから始終、こちらの腹を探るような物言いをしてくる、ヴィクトールの胡散臭い態度が、どうにも気に食わない。
しばしの間、逡巡していたアレクシオは、頭の中である程度、策を纏めると、三度ヴィクトールの方を振り返った。
「ええ、もちろん、知っていますよ。彼女とは何度か顔を合わせて、話もしていますから」
「ふーん、そうなんだ。ねえ、アレクシオ。僕もその彼女とやらに興味があるんだ。一度会わせてもらえないかな」
半開きの唇に薄っぺらい笑みを載せて、ヴィクトールがそんなことを言い出す。
やはりそう来たか、とヴィクトールの言動をあらかた見切っていたアレクシオは、
「もちろん、構いませんよ。ヴィクトール卿相殿」
躊躇することなく、即座にそう答えると、彫刻のようなその美貌に挑発的な笑みを瞬かせた。