紅き月夜に 永遠の想い~運命に導かれた月夜の出逢い~
騎士団長と明けない夜②(アレク視点)
「アレクぅー、ずいぶんと帰ってくるのが遅かったじゃねえか。ずうううっと待ってたんだぞう」
広大な王宮の敷地内に設けられた騎士団施設の別棟から、寄宿舎へと戻ってきたアレクシオは、酒瓶と思われる容器をぶんぶんと振り回し、自室の前にヘたれこんでいるソレを発見し、今日は厄日であることを確信した。
今すぐにでも、回れ右をして、その場から逃げ去りたかったが、他に身を寄せる場所など思いつかない。
どこかの酒場でやり過ごすことも考えたが、意見の纏まらない定例会議に長々と付き合わされ、やっとそれから解放されたかと思えば、今度は卿相であるヴィクトールに捕まり、どうでもいい話をだらだらと聞かされ、ぶっちゃけ、今すぐにでも、ベッドに倒れ込みたいくらいには疲れ切っているのだ。
だがしかし部屋に入るには、自室の前にいるアレを、どうにかして排除しなければならない。
何でこんな面倒なことばかりに巻き込まれるんだ、と自分の運のなさにやさぐれつつ、アレクシオは、はあ、と溜め息を吐くと、自室の前でヘたれこんでいるソレに近寄った。
「って、おいこら。お前は人の部屋の前で何をしているんだ。とっとと自分の部屋へ帰れ」
「何をって、それは見れば分かるじゃないか。俺は一人寂しく、お前が戻ってくるのを、ずうっとずうっと待ってたんだぞう! なのにそんな冷たくあしらうなんて酷いじゃないか!」
「ひどいもなにも、部屋の前で待っていろ、と指図した覚えは一切ないぞ! 寄宿舎の廊下で酒を煽って騒いだと知れれば、始末書を書くことになるぞ、ジオルド!」
「あー、あー、始末書の一枚や二枚なんざ、いくらでも書いてやるよ。始末書が怖くて酒が飲めるかっつーの! っていうか聞いてくれよ、アレクシオー! 今夜、花屋のマリアンナちゃんとデートする予定だったんだ! ちょっとこじゃれた素敵な料理店で、美味しい晩御飯を食べたいわ♡ なんて頼まれたからさー、ちょっと奮発して『翠玉亭』の、当店一押し料理長の特選おススメ晩御飯コースを予約したわけよ。だけどさあ、昼間に仕立て屋のレイフェアちゃんと『蒼玉亭』で、一緒に昼食してるのがバレてさあ。怒ったマリアンナちゃんにデートすっぽかされたんだよー! 時間ギリギリでキャンセルもできねえし、仕方ないから、一人でコース料理二人前食って来たけどさあああっ!」
ツッコミどころが満載過ぎるジオルドのクソ長ったらしい自白に呆れ返りつつ。
「……というか、お前、二人前のフルコースを一人で食ったのか」
「……って、ツッコむの、そこ!?」
「いや、ともかく、それはバレないだろうと胡坐をかいて、二股をかけたお前の自業自得だろうが」
こほり、と咳ばらいを一つ落として、尤もらしい意見を述べてやれば、ジオルドは青紫の瞳をうるうると滲ませ、アレクぅー! と情けない声を出すと、がばり、と身を投げ出して、足元に縋り付いてくる。
「ずたずたのぼろぼろに傷ついた俺の繊細なガラスのハートを慰めてくれよぉおおおおぉぉお!!」
「あー! うっとおしい! それはお前の自業自得だろうが! 何で俺が慰めなきゃいけないんだ! ってか足元に纏わりつくな! ぎゃんぎゃん喚くな!」
酔い潰れてはいないが、それでも冷静に状況判断できないくらいには酔っているらしい。
あーだこーだとごねている間にも、なんだこいつらは、と奇異の眼差しを投げつけながら、見知った顔が、一人、二人と目の前を通り過ぎてゆく。
このまま、ここで騒ぎ続けていたら、本当に始末書を書くことになりそうだ。
酔った勢いで始末書なんざ怖かねえ! と喚いていたが、酔いが醒めたジオルドが、明日の昼辺りに、顔面蒼白になっている様子が、ありありと目に浮かぶ。
まあこの程度なら、せいぜい厳重注意を受けるくらいだろうが、総帥の虫の居所が悪ければ、最悪、一日二日の自室謹慎もありうるかもしれない。
そうなると困るのはアレクシオ自身だ。
「…………この借りはデカいぞ、ジオルド。明後日の演習試合でみっちりと扱いてやるから覚悟しておけよ」
「ああ、なんだあ? ぐちぐちと小せえことを言ってねえで、今夜は二人で、ぱあっー、と盛り上がろうぜ! なあ、アレクシオ!」
そんなに酒が飲みたいならいっそ酒樽の中に沈めてやろうか、と芽生えたどす黒い気持ちに蓋を被せつつ、ヘたれこむジオルドの肩を担ぎ込んで立ち上がらせると、アレクシオは泥酔するジオルドを泣く泣く自室の中へ放り込んだ。
***
「おとなしく、そこに座ってろ」
二間続きの自室の応接室に設えた一人用の椅子にジオルドを座らせ、三人掛けの長椅子の背凭れに脱いだばかりの黒のロングコートを引っ掛けると、アレクシオは柔らかなクッションを敷き詰めた長椅子に疲れた身体を投げ出した。
「ほら、お前も飲めようー」
シャツの釦をいくつか外して胸元を寛げていたら、すっかり酒に酔ったジオルドが、葡萄酒が入った瓶を傾けて、グラスになみなみと酒を注ぐ。
深みのある濃い緑色のラベルに、金色の装飾文字で銘柄が記載された、美しいデザインのそのボトルは、特別居住区に住まう貴族の間では、最も好まれているものだ。
手頃な価格で手に入ると、貴族間では流通が盛んなそれも、だがしかし下層あるいは中層に身を置く民からすれば、特別な行事でもない限り、食卓には滅多と載らない高級な代物だ。
財布のひもが自ずと固くなる給料日前のこの時期に、こんなに派手に散財しても大丈夫なのか、とジオルドの懐を心配してやりつつ、丸みを帯びたワイングラスを手に取り、くるくる回して空気を取り込み、香りを立たせてやれば、甘く煮詰めた赤と黒のベリーの甘酸っぱい香りが、ふわり、と薫る。
チョコレートやケーキなど、菓子類の甘さは苦手だが、酒類の甘さは全然気にならないアレクシオだ。
適度に熟した果実の甘みと酸っぱさを感じさせる香りを存分に堪能したのち、グラスの縁に唇をつけ、一口含んで舌の上で転がしてやれば、香りと同様、厚みのある果実の蜜の味わいが舌を包み込む。
「……美味いな」
毎晩、嗜む程度に酒は飲んでいるが、贅沢を極めた高級なものを飲むのは、かなり久しぶりのことだ。
価格に見合った円やかで芳醇なその味わいを、じっくりと満喫していたら、やおら立ち上がったジオルドが、食器棚から適当に見繕った大きめの皿を持ってきたかと思えば、どこかで仕入れてきたらしい、木の実を燻して乾燥させたものをがっさりと皿に盛る。
どうやら酒の肴にと持ってきたナッツ類のようだ。
様々な種類の木の実が山盛りに入った皿から、燻したクルミをいくつか摘まみ、口の中へ放り込む。適度に塩が利いていて、なるほど酒が進むのも、納得がゆく美味しさだ。
「あのさ、ずうっと気になってたんだけど、お前、もしかして黒目の子猫ちゃんに気でもあんの?」
「黒目の子猫、ちゃん?」
噛み砕いたクルミをワインと一緒に嚥下し、新たにナッツを摘まんでいたら、ジオルドが妙なことを聞いてくる。
黒目の子猫ってなんだそれ、と首を傾げかけて、誰のことを言っているのかに気づき、すっかり油断していたアレクシオは、口の中に放り込んだナッツを、思わず、丸呑みにしてしまった。
運が悪いことに、噛み砕き損ねたナッツの塊が、気道に引っかかる。
ゲホゲホと激しく噎せ返りながら、テーブルの上に置いていた水差しを引っ掴み、器の中に残っていた水を一気に飲み干し、引っかかっていたナッツを、どうにかこうにか咽喉の奥に流し込む。
やっぱり今日は絶対に厄日だ、と思いつつ、長椅子の背凭れに、ぐったりと身体を預けて、ぜいはあ、と乱れる呼吸を整えていたら。
「え!? なに、その反応!? お、お前、まさか本当に子猫ちゃんに気があんのか!?」
「って、そんなわけあるか! お前が妙なことを聞くから、咽喉を詰まらせただろうが!」
「いやあ、それにしても驚いたなあ。お前ってミオちゃんみたいなのがタイプだったのかー!」
「だから違うと言っているだろうが! あんな手の焼ける猪突猛進なじゃじゃ馬に、誰が恋愛感情など湧くか! あれを相手にするくらいなら、歓楽街で働く娼婦を相手にする方がよっぽどかマシだ!」
否定をすればするほど、それは『肯定』を意味しているのとほぼ等しい、ということに、アレクシオはまだ気づいていないようだ。
いつになく感情を露わにして、機関銃がごとく、破竹の勢いで捲し立てるアレクシオに唖然としつつ、短く刈り上げた銀色の髪を、かしかし、と指で掻きながら、ジオルドはちょっと困ったような表情を浮かべた。
「猪突猛進なじゃじゃ馬って……さすがにそれは失礼なんじゃね? いやまあ確かに的を得てる気がしなくもないけどさあ。っていうか、そんなムキになるなよー、冗談だよ、冗談!」
そうは言ってみたものの、アレクシオがあれほど過剰に反応するのは、非常に珍しいことだ。
「でもさあ、お前にしては珍しく、あれこれと面倒を見てやってるよな。いつもなら忙しいとか何とか言って、すぐに他の連中に丸投げするのにさー」
そりゃあ、相手はこの世に様々な災いを齎すかもしれないとされている異端者だからな。おいそれと目を離すわけにはいかないし、他人に面倒を見させるわけにもいかないだろう。
俺だって好きで世話を焼いているわけではないんだぞ。
と言ってやりたかったのだが、いくら気心の知れたジオルドであろうと、さすがに国家機密レベルのそれを大っぴらに暴露するわけにもいかない。
「まあ、そうだな。あえて例えるなら、新種の珍獣を拾ったものの、捨てるに捨てられなくて、致し方なく、保護して面倒を見ている、ってところだな」
「ってなんだそれ! もっと他に例えようがあるだろうが。それこそ黒目の子猫ちゃんだとかさー」
「黒目の子猫? いやアレはそんな可愛いものではないぞ。それこそ珍獣という単語の方がぴったりだろうが」
ずけずけと無遠慮にそう言って退け、残っていたワインを、ぐびり、と飲み干し、美しいデザインのラベルが貼られた瓶を傾けると、アレクシオは空になったグラスに、とぷとぷ、とワインを注ぐ。
柘榴石を思わせる深みのある赤の液体で、グラスをいっぱいに満たしてやりながら、何となしに窓の外に浮かぶ月を見上げたアレクシオは、数時間前、ヴィクトールと交わした会話を思い返した。
『僕もその彼女とやらに興味があるんだ。一度会わせてもらえないかな』
売り言葉に買い言葉とまではいかないものの、ヴィクトールが言い放ったそれに、つい勢いに任せて、彼女に会わせることを承諾してしまった。
変に断れば怪しまれるだろうし、ヴィクトール自身も忙しいだろうから、今日明日という短期間で都合がつくような話でもないだろう、と先を見越して、会わせてもいいと言ったのだが、いざ二人を立ち会わせたときの対処までは、まだ具体的に考えていない。
まあ時間的にまだ余裕はあるから、対処法に関しては、これからゆっくり考えればいいだろう。
(……何の相談もなしに、勝手に決めてしまったが、やはり怒るだろうか)
彼女の性格から考えるに怒ったりはしなさそうだが、思いっきり、困った顔をされそうだ。事後報告にはなってしまうが、やはり、ちゃんと本人には伝えておいた方がいいだろう。
ここ最近、まともに顔を合わせていないし、様子見も兼ねて、明日辺りにでも、一度会いに行ってみるか。あまり気は進まないのだが。
などと頭の中で、うだうだとそんなことを考えつつ、柘榴色に満たされたグラスを傾け、芳醇な香りを放つワインを、二口、三口ほど含むと、アレクシオは、ふう、と溜め息を吐いた。
ヴィクトールの様子を見る限り、ミオが異端者だと、確信しているわけではなさそうだ。
だが己の株を上げるためなら、どんな手段を使ってでも、相手を陥れようとする狡猾な一面を持つ男だ。
悪知恵を駆使して、こちらの尻尾を掴みにかかってくる可能性は、大いにありうるだろう。
(いっそうのこと、彼女が本当にただの新種の珍獣だったら、どんなに楽だったろうな)
少し酔いが回ってきたのか、そんなありえないことを考えてしまい、それがあまりにも、滑稽で、くっ、と咽喉を鳴らして苦笑いを溢す。
窓の外に見える月が浮かぶのは、流れる雲よりも、さらに低い位置にある空だ。
始まりを告げたばかりの夜は当分明けそうにもない。
「あまり悠長に構えてもいられそうにないな。早急に次の策を練らなければ――……」
誰の耳にも届かないくらい、小さな声でそう呟くと、アレクシオはグラスに残っていたワインを一気に飲み干した。
広大な王宮の敷地内に設けられた騎士団施設の別棟から、寄宿舎へと戻ってきたアレクシオは、酒瓶と思われる容器をぶんぶんと振り回し、自室の前にヘたれこんでいるソレを発見し、今日は厄日であることを確信した。
今すぐにでも、回れ右をして、その場から逃げ去りたかったが、他に身を寄せる場所など思いつかない。
どこかの酒場でやり過ごすことも考えたが、意見の纏まらない定例会議に長々と付き合わされ、やっとそれから解放されたかと思えば、今度は卿相であるヴィクトールに捕まり、どうでもいい話をだらだらと聞かされ、ぶっちゃけ、今すぐにでも、ベッドに倒れ込みたいくらいには疲れ切っているのだ。
だがしかし部屋に入るには、自室の前にいるアレを、どうにかして排除しなければならない。
何でこんな面倒なことばかりに巻き込まれるんだ、と自分の運のなさにやさぐれつつ、アレクシオは、はあ、と溜め息を吐くと、自室の前でヘたれこんでいるソレに近寄った。
「って、おいこら。お前は人の部屋の前で何をしているんだ。とっとと自分の部屋へ帰れ」
「何をって、それは見れば分かるじゃないか。俺は一人寂しく、お前が戻ってくるのを、ずうっとずうっと待ってたんだぞう! なのにそんな冷たくあしらうなんて酷いじゃないか!」
「ひどいもなにも、部屋の前で待っていろ、と指図した覚えは一切ないぞ! 寄宿舎の廊下で酒を煽って騒いだと知れれば、始末書を書くことになるぞ、ジオルド!」
「あー、あー、始末書の一枚や二枚なんざ、いくらでも書いてやるよ。始末書が怖くて酒が飲めるかっつーの! っていうか聞いてくれよ、アレクシオー! 今夜、花屋のマリアンナちゃんとデートする予定だったんだ! ちょっとこじゃれた素敵な料理店で、美味しい晩御飯を食べたいわ♡ なんて頼まれたからさー、ちょっと奮発して『翠玉亭』の、当店一押し料理長の特選おススメ晩御飯コースを予約したわけよ。だけどさあ、昼間に仕立て屋のレイフェアちゃんと『蒼玉亭』で、一緒に昼食してるのがバレてさあ。怒ったマリアンナちゃんにデートすっぽかされたんだよー! 時間ギリギリでキャンセルもできねえし、仕方ないから、一人でコース料理二人前食って来たけどさあああっ!」
ツッコミどころが満載過ぎるジオルドのクソ長ったらしい自白に呆れ返りつつ。
「……というか、お前、二人前のフルコースを一人で食ったのか」
「……って、ツッコむの、そこ!?」
「いや、ともかく、それはバレないだろうと胡坐をかいて、二股をかけたお前の自業自得だろうが」
こほり、と咳ばらいを一つ落として、尤もらしい意見を述べてやれば、ジオルドは青紫の瞳をうるうると滲ませ、アレクぅー! と情けない声を出すと、がばり、と身を投げ出して、足元に縋り付いてくる。
「ずたずたのぼろぼろに傷ついた俺の繊細なガラスのハートを慰めてくれよぉおおおおぉぉお!!」
「あー! うっとおしい! それはお前の自業自得だろうが! 何で俺が慰めなきゃいけないんだ! ってか足元に纏わりつくな! ぎゃんぎゃん喚くな!」
酔い潰れてはいないが、それでも冷静に状況判断できないくらいには酔っているらしい。
あーだこーだとごねている間にも、なんだこいつらは、と奇異の眼差しを投げつけながら、見知った顔が、一人、二人と目の前を通り過ぎてゆく。
このまま、ここで騒ぎ続けていたら、本当に始末書を書くことになりそうだ。
酔った勢いで始末書なんざ怖かねえ! と喚いていたが、酔いが醒めたジオルドが、明日の昼辺りに、顔面蒼白になっている様子が、ありありと目に浮かぶ。
まあこの程度なら、せいぜい厳重注意を受けるくらいだろうが、総帥の虫の居所が悪ければ、最悪、一日二日の自室謹慎もありうるかもしれない。
そうなると困るのはアレクシオ自身だ。
「…………この借りはデカいぞ、ジオルド。明後日の演習試合でみっちりと扱いてやるから覚悟しておけよ」
「ああ、なんだあ? ぐちぐちと小せえことを言ってねえで、今夜は二人で、ぱあっー、と盛り上がろうぜ! なあ、アレクシオ!」
そんなに酒が飲みたいならいっそ酒樽の中に沈めてやろうか、と芽生えたどす黒い気持ちに蓋を被せつつ、ヘたれこむジオルドの肩を担ぎ込んで立ち上がらせると、アレクシオは泥酔するジオルドを泣く泣く自室の中へ放り込んだ。
***
「おとなしく、そこに座ってろ」
二間続きの自室の応接室に設えた一人用の椅子にジオルドを座らせ、三人掛けの長椅子の背凭れに脱いだばかりの黒のロングコートを引っ掛けると、アレクシオは柔らかなクッションを敷き詰めた長椅子に疲れた身体を投げ出した。
「ほら、お前も飲めようー」
シャツの釦をいくつか外して胸元を寛げていたら、すっかり酒に酔ったジオルドが、葡萄酒が入った瓶を傾けて、グラスになみなみと酒を注ぐ。
深みのある濃い緑色のラベルに、金色の装飾文字で銘柄が記載された、美しいデザインのそのボトルは、特別居住区に住まう貴族の間では、最も好まれているものだ。
手頃な価格で手に入ると、貴族間では流通が盛んなそれも、だがしかし下層あるいは中層に身を置く民からすれば、特別な行事でもない限り、食卓には滅多と載らない高級な代物だ。
財布のひもが自ずと固くなる給料日前のこの時期に、こんなに派手に散財しても大丈夫なのか、とジオルドの懐を心配してやりつつ、丸みを帯びたワイングラスを手に取り、くるくる回して空気を取り込み、香りを立たせてやれば、甘く煮詰めた赤と黒のベリーの甘酸っぱい香りが、ふわり、と薫る。
チョコレートやケーキなど、菓子類の甘さは苦手だが、酒類の甘さは全然気にならないアレクシオだ。
適度に熟した果実の甘みと酸っぱさを感じさせる香りを存分に堪能したのち、グラスの縁に唇をつけ、一口含んで舌の上で転がしてやれば、香りと同様、厚みのある果実の蜜の味わいが舌を包み込む。
「……美味いな」
毎晩、嗜む程度に酒は飲んでいるが、贅沢を極めた高級なものを飲むのは、かなり久しぶりのことだ。
価格に見合った円やかで芳醇なその味わいを、じっくりと満喫していたら、やおら立ち上がったジオルドが、食器棚から適当に見繕った大きめの皿を持ってきたかと思えば、どこかで仕入れてきたらしい、木の実を燻して乾燥させたものをがっさりと皿に盛る。
どうやら酒の肴にと持ってきたナッツ類のようだ。
様々な種類の木の実が山盛りに入った皿から、燻したクルミをいくつか摘まみ、口の中へ放り込む。適度に塩が利いていて、なるほど酒が進むのも、納得がゆく美味しさだ。
「あのさ、ずうっと気になってたんだけど、お前、もしかして黒目の子猫ちゃんに気でもあんの?」
「黒目の子猫、ちゃん?」
噛み砕いたクルミをワインと一緒に嚥下し、新たにナッツを摘まんでいたら、ジオルドが妙なことを聞いてくる。
黒目の子猫ってなんだそれ、と首を傾げかけて、誰のことを言っているのかに気づき、すっかり油断していたアレクシオは、口の中に放り込んだナッツを、思わず、丸呑みにしてしまった。
運が悪いことに、噛み砕き損ねたナッツの塊が、気道に引っかかる。
ゲホゲホと激しく噎せ返りながら、テーブルの上に置いていた水差しを引っ掴み、器の中に残っていた水を一気に飲み干し、引っかかっていたナッツを、どうにかこうにか咽喉の奥に流し込む。
やっぱり今日は絶対に厄日だ、と思いつつ、長椅子の背凭れに、ぐったりと身体を預けて、ぜいはあ、と乱れる呼吸を整えていたら。
「え!? なに、その反応!? お、お前、まさか本当に子猫ちゃんに気があんのか!?」
「って、そんなわけあるか! お前が妙なことを聞くから、咽喉を詰まらせただろうが!」
「いやあ、それにしても驚いたなあ。お前ってミオちゃんみたいなのがタイプだったのかー!」
「だから違うと言っているだろうが! あんな手の焼ける猪突猛進なじゃじゃ馬に、誰が恋愛感情など湧くか! あれを相手にするくらいなら、歓楽街で働く娼婦を相手にする方がよっぽどかマシだ!」
否定をすればするほど、それは『肯定』を意味しているのとほぼ等しい、ということに、アレクシオはまだ気づいていないようだ。
いつになく感情を露わにして、機関銃がごとく、破竹の勢いで捲し立てるアレクシオに唖然としつつ、短く刈り上げた銀色の髪を、かしかし、と指で掻きながら、ジオルドはちょっと困ったような表情を浮かべた。
「猪突猛進なじゃじゃ馬って……さすがにそれは失礼なんじゃね? いやまあ確かに的を得てる気がしなくもないけどさあ。っていうか、そんなムキになるなよー、冗談だよ、冗談!」
そうは言ってみたものの、アレクシオがあれほど過剰に反応するのは、非常に珍しいことだ。
「でもさあ、お前にしては珍しく、あれこれと面倒を見てやってるよな。いつもなら忙しいとか何とか言って、すぐに他の連中に丸投げするのにさー」
そりゃあ、相手はこの世に様々な災いを齎すかもしれないとされている異端者だからな。おいそれと目を離すわけにはいかないし、他人に面倒を見させるわけにもいかないだろう。
俺だって好きで世話を焼いているわけではないんだぞ。
と言ってやりたかったのだが、いくら気心の知れたジオルドであろうと、さすがに国家機密レベルのそれを大っぴらに暴露するわけにもいかない。
「まあ、そうだな。あえて例えるなら、新種の珍獣を拾ったものの、捨てるに捨てられなくて、致し方なく、保護して面倒を見ている、ってところだな」
「ってなんだそれ! もっと他に例えようがあるだろうが。それこそ黒目の子猫ちゃんだとかさー」
「黒目の子猫? いやアレはそんな可愛いものではないぞ。それこそ珍獣という単語の方がぴったりだろうが」
ずけずけと無遠慮にそう言って退け、残っていたワインを、ぐびり、と飲み干し、美しいデザインのラベルが貼られた瓶を傾けると、アレクシオは空になったグラスに、とぷとぷ、とワインを注ぐ。
柘榴石を思わせる深みのある赤の液体で、グラスをいっぱいに満たしてやりながら、何となしに窓の外に浮かぶ月を見上げたアレクシオは、数時間前、ヴィクトールと交わした会話を思い返した。
『僕もその彼女とやらに興味があるんだ。一度会わせてもらえないかな』
売り言葉に買い言葉とまではいかないものの、ヴィクトールが言い放ったそれに、つい勢いに任せて、彼女に会わせることを承諾してしまった。
変に断れば怪しまれるだろうし、ヴィクトール自身も忙しいだろうから、今日明日という短期間で都合がつくような話でもないだろう、と先を見越して、会わせてもいいと言ったのだが、いざ二人を立ち会わせたときの対処までは、まだ具体的に考えていない。
まあ時間的にまだ余裕はあるから、対処法に関しては、これからゆっくり考えればいいだろう。
(……何の相談もなしに、勝手に決めてしまったが、やはり怒るだろうか)
彼女の性格から考えるに怒ったりはしなさそうだが、思いっきり、困った顔をされそうだ。事後報告にはなってしまうが、やはり、ちゃんと本人には伝えておいた方がいいだろう。
ここ最近、まともに顔を合わせていないし、様子見も兼ねて、明日辺りにでも、一度会いに行ってみるか。あまり気は進まないのだが。
などと頭の中で、うだうだとそんなことを考えつつ、柘榴色に満たされたグラスを傾け、芳醇な香りを放つワインを、二口、三口ほど含むと、アレクシオは、ふう、と溜め息を吐いた。
ヴィクトールの様子を見る限り、ミオが異端者だと、確信しているわけではなさそうだ。
だが己の株を上げるためなら、どんな手段を使ってでも、相手を陥れようとする狡猾な一面を持つ男だ。
悪知恵を駆使して、こちらの尻尾を掴みにかかってくる可能性は、大いにありうるだろう。
(いっそうのこと、彼女が本当にただの新種の珍獣だったら、どんなに楽だったろうな)
少し酔いが回ってきたのか、そんなありえないことを考えてしまい、それがあまりにも、滑稽で、くっ、と咽喉を鳴らして苦笑いを溢す。
窓の外に見える月が浮かぶのは、流れる雲よりも、さらに低い位置にある空だ。
始まりを告げたばかりの夜は当分明けそうにもない。
「あまり悠長に構えてもいられそうにないな。早急に次の策を練らなければ――……」
誰の耳にも届かないくらい、小さな声でそう呟くと、アレクシオはグラスに残っていたワインを一気に飲み干した。