紅き月夜に 永遠の想い~運命に導かれた月夜の出逢い~
そうして歯車は廻り始める。
「お待たせー、ミオちゃん。今日はこの二冊よ」
「ありがとうございます。シルヴィアナさん。毎回、助かりますー」
レナードが書いたメモと一緒に、厚みのある色褪せた表紙の本を二冊持ってきてくれたのは、王立図書館で働く従業員のシルヴィアナさんだ。
王都アリルアの街外れに位置する小高い丘のてっぺんに、ででん、と聳える、広大な敷地面積を誇る城塞には、王様一族が住まう煌びやかな宮殿を始め、遠方から訪れた上流階級の人たちが宿泊するための来賓館や、王立騎士団の施設など、様々な機能を持つ建物が集約されている。
そんな城塞の一角に建つ王立図書館は、地上五階建ての大きな建物で、空に向かって高く聳え建つ尖塔を除けば、城塞の中に点在する施設の中では、一番の高さを誇る建物だ。
その最上階には360度の抜群の眺望が楽しめる展望テラスが設けられ、一般に向けて開放されているため、王立図書館はいつも多くの人たちで賑わっている。
五階建ての立派な建物に蔵書されている本の数は、ざっと見積もっても、三十万冊以上はあるらしく、印刷技術がそこまで大きく発展していないこの世界に於いて、三十万冊を超える本を収納しているのは、とんでもなく、すごいことらしい。
シルヴィアナさん曰く、セラフィリア随一の大国であるミストリア帝国でさえ、ここまでの蔵書数を誇る図書館は擁していないらしく、広い館内を案内する際、シルヴィアナさんはいつも得意げに「ここは世界に誇れる図書館なのよ」と話しているそうだ。
五つの階層から成る王立図書館は、階ごとに細かくカテゴリーが分けられていて、各フロアには読み物の専門家である司書さんを始め、数多くの従業員さんが働いている。
シルヴィアナさんも、多くいる従業員のうちの一人で、誰でも立ち入ることができる二階フロアで――ちなみに展望テラスを除く、三階から五階までは専門書のフロアになっていて、許可証がないと立ち入りが認められない――おもに施設内の案内やカウンター業務を行っている司書さんだ。
週に三回くらいのペースで通っているうちに、仲良くなった従業員さんは、他にもいるのだけれど、スイーツ大好き! という共通点があるシルヴィアナさんとは、休みの日に一緒にスイーツ店巡りをするくらい――ありがたいことに毎回シルヴィアナさんにご馳走してもらっている。いやはや申し訳ない限りである――大の仲良しなのだ。
「毎回レナードのお使いに駆り出されて、ミオちゃんも大変ねえ」
「でもこうやってお使いするのも、私に与えられた仕事の一つだし、仕事がてら外出もできるし、何よりシルヴィアナさんに会えるから、私としては全然苦じゃないですよ。むしろ王立図書館に行けるのが楽しみなくらい!」
「ふふふふふ。ミオちゃんは本当に仕事熱心ねえ」
「三食ご飯付きおやつ付きで、施設に住まわせてもらってるので、その分はしっかり働いて返さないと、ですからねー」
「そうなのね。ところでミオちゃん。お使いついでに、ちょっと頼まれごとを引き受けてくれないかしら?」
「もちろん、構わないですよ! 頼まれごとって何ですか?」
文字が読めない私に代わって、いつも本を探してきてくれるし、美味しいスイーツも、何度か、ご馳走してもらっているから、二つ返事でシルヴィアナさんの依頼を引き受ければ、シルヴィアナさんはカウンターの後ろの棚から、本を一冊抜き取ると、はい、と手渡してくれた。
「アレクからも、急ぎの配達を頼まているんだけど、今日は皆、朝からバタバタしていて、しばらく手が離せそうにないのよね。悪いんだけど、寄宿舎まで届けてくれないかなあ? もちろん、タダで、とは言わないわ」
依頼の詳細を話しながら、上着の胸ポケットから、横長の紙切れを取り出すと、シルヴィアナさんは、じゃーん! と言って、にんまりと笑みを浮べると、指先に摘まんだ紙切れの表側を、ぴらり、と私の方に向けた。
横長の紙切れはどうやらお手製のチケットのようだ。
女子受けが良さそうな淡いピンク色を基調とした紙の表には、可愛らしいパフェやケーキのイラストが描き添えられていて、紙のど真ん中には派手な色遣いで大胆に描かれたデコレーション文字が踊っている。
カラフルな色合いで描かれたそれは、こちらの世界の文字が読めない私でも知っている、西大陸界隈では超有名なスイーツ店『ラ・ヴィエイユ』のロゴだ。
「『ラ・ヴィエイユ』の新作スイーツ試食会のチケット当てちゃったんだー♡ 来週の週末開催されるんだけど、ミオちゃんも、もちろん行くわよね?」
「えっ!? 私も一緒に行っちゃっていいんですか!?」
「もちろん、いいに決まってるじゃない! 待ち合わせ時間とかは改めて後日決めましょう。そういうことでミオちゃん、その本、騎士団寄宿舎まで届けてね」
「はい! わかりました!」
超人気スイーツ店『ラ・ヴィエイユ』の新作スイーツが食べられるなんて楽しみー! とウキウキしつつ、シルヴィアナさんから預かった本を小脇に挟むと、私は意気揚々、騎士団寄宿舎へと向かった。
***
「うわあー、ものすごく天気悪いなあ。雨が降らないうちに、急いで寄宿舎へ行かなきゃ」
今日は朝起きたときから、ずっと雲行きが怪しくて、いつ雨が降り出しても、おかしくないくらい、天気が悪かったのだけれど、王立図書館から出てくる頃には、天気はさらに悪化していて、空は重く垂れ下がる灰色の分厚い雲に覆い尽くされ、どんよりを通り越して、辺りはかなり薄暗くなっていた。
いつもなら図書館の出入り口付近は、展望テラスを利用する人たちで、賑わっているのだけれど、今にも泣き出しそうな空模様のせいか、閑散としており、たまにすれ違う人も、いつ降り出すか分からない雨を避けようと、足早に去ってゆく。
どこかで雷雲が発生しているのか、ごろごろ、と鳴る雷の低い音が、暗雲立ちこめる空の遠いところから、ときおり、聞こえてくる。
寄宿舎に着いたら雨具を借りて帰ろう。
そんなことを思いつつ、出てきたばかりの王立図書館に背中を向け、お城の北側へと向かう小道を、足早に突き進む。
小高い丘のてっぺんに造られた強固な城塞は、とてつもなく広く、セラフィリアに飛ばされたばかりの頃は、しょっちゅう道に迷っては遭難し、騎士団に所属する騎士の皆様方には、よくお世話になったものだ。
遭難するたびに、毎回のごとく、アレクにお説教を喰らっていた方向音痴な私も、今ではすっかり学習し、よく足を運ぶ騎士団寄宿舎と王立図書館へは、目を瞑ってでも行けるくらいだ。
いや、嘘を吐きました。
目を瞑って歩いたりなんてできません。
などと一人ボケツッコミを咬ませつつ、舗装されていない小道に盛られた土を、ざくざく、と踏み締めながら、寄宿舎へと向かっていたら。
「――……それで彼女にはいつ会わせてくれるんだい? アレクシオ」
緩やかな傾斜の坂道の途中に差しかかった辺りで、どこからか聞こえてきたその声に、私は、ぴたり、と立ち止まった。
(あれ? 今、“アレクシオ”って言ったよね?)
アレクの名前を発した主に関しては、まったく覚えがないのだけれど、シルヴィアナさんから預かっていた本のこともあって、私は灌木の茂みを小さく掻き分けると、わずかにできた隙間から、そろり、と声がした方を覗き込んだ。
茂みの向こう側には、ちょっとした休憩が取れる、簡素な建屋が設けられている。その建屋の下に向かい合うように二つの影が、すうー、と伸びている。
私からは背中しか見えないけれど、ふくらはぎが隠れるくらい、丈の長い黒のコートと、吹く風に靡く漆黒の艶やかな髪は間違いなくアレクだ。
そうしてもう一人。
アレクの向かい側に立つのは、ちょっと神経質そうな面持ちをした、ワンレンショートボブの美形だ。
シャープな線を描く輪郭にかかる髪は、色素が抜けたような白銀で、細いフレームの眼鏡のレンズ越しに覗く瞳は、透明感のある青みがかった淡い緑色をしていて、とても神秘的だ。
女性のような美しさを持つ細身の美形ではあるが、半開きの薄い唇から洩れる低い声は、男性そのもので、神経質そうなその表情は、どことなく冷たさを漂わせていて、ちょっと近寄りがたい雰囲気を醸し出している。
柔らかそうな布地で仕立てられた衣装には、金と銀の糸で施された華やかな文様の刺繍が浮かび上がり、襟元や袖口には高価そうな石があしらわれ、王様、とまではいかなくても、それなりに高貴な身分であることは一目瞭然だ。
シルヴィアナさんから預かった本を渡して、さっさと退散しようと思ったのだが、対峙する二人の間には、ぴりぴりとした空気が張り詰めていて、やあ! と気軽に顔を出せるような雰囲気ではない。
時間をおいて出直そうかと思ったものの、何の話をしてるんだろう、と興味の方が先に立ち、私は灌木の茂みに隠れるように、しゃがみ込むと息を潜めた。
盗み聞きなんて趣味が悪いなあ、と思いつつも、会話をする二人からは茂みに遮られて、こちら側は見えないのをいいことに、全神経を鼓膜に集中させて、二人の会話に耳を欹てる。
「もちろん、ヴィクトール卿相殿のご都合に合わせますよ。ですが、お忙しいご身分の上、すぐに日程を調整されるのは、難しいのではありませんか?」
「確かにまあ日程は詰まっているけれど、優先すべき事項ってものがあるだろう?」
「それは彼女と面会することが、最優先事項、だという、お考えなのでしょうか?」
「ああ、そうだよ。これは僕、独自の見解だけど、その彼女ってのが『月に呼ばれし異端者』である可能性を、どうしても捨て切れないんだよね」
鼻にかけたような物言いをする彼はヴィクトールという名前らしい。
卿相っていう役職が、どれくらい偉いのかは分からないけれど、それでも第一騎士団師団長っていう肩書きを持つアレクが、あれほど丁寧な対応をしているということは、ヴィクトールという人は、それなりの地位に就く人なのだろう。
とそんなことを考えていたら、ぽつり、ぽつり、と、大粒の雨が降ってきた。
降り出した雨は瞬く間に横殴りの強い雨へと変わってゆく。
それだけでなく、遠くで聞こえていたはずの雷の音までもが、徐々に近づいてきた。
冷たい雨に打たれながら、やっぱり盗み聞きなんてするんじゃなかった、と思いっきり後悔したけれど、いまさら顔を出すわけにもいかない。
早く会話が終わることを祈りつつ、私は二人のやり取りを聞き続けることにした。
「さすがに今すぐに連れてこい、とは言わないよ。彼女とやらの都合もあるだろうし、アレクシオだって色々と準備があるだろう? そうだなあ、少し猶予を持たせて、明後日の昼に顔合わせってのはどうだい?」
「そうですね。少し急な話ですが、明日にでも彼女と話をして、都合が合うよう調整しておきますよ。ヴィクトール卿相殿」
「君は本当に話が早くて助かるよ。おや、雨が降ってきたみたいだな。じゃあ、僕はこれで帰らせてもらうよ。彼女にもよろしく伝えておいてくれよ、アレクシオ」
こちらに背中を向けて立つアレクの肩を、ぽん、と叩いて、ヴィクトールは雨を避けるようにして、私がいる方とは反対の道を駆け去ってゆく。
意外にも呆気なく終わった会話に、ほう、と胸を撫で下ろしつつ、どこか雨が凌げそうな場所まで移動しようと、そろり、と腰を浮かして、その直後、頭の真上で、ぴかり、と眩い閃光が走ったかと思えば、耳を劈く大きな雷鳴が轟いた。
「き……きゃあああああああ!!」
「――――っ、美緒!? ってお前、こんなところで何をしているんだ!」
あまりにも間近で鳴り響いた雷にびっくりして、すぐそこにアレクがいることも忘れて悲鳴を上げれば、血相を変えたアレクが、灌木の茂みを掻き分けて、駆け寄ってくる。
盗み聞きをしていたことに気づいて、ぶちぎれたのかと思い、やばい! 殴られる! と、ぎゅうっ、と目を瞑りつつ、頭をガードしようとして、持ち上げた腕を、ありえないくらい強い力で、アレクが引っ掴む。
「お前、いつからそこにいたんだ!」
「ご、ごごごごご、ごめんなさいっ! 盗み聞きをするつもりはなかったの! シルヴィアナさんから預かった本を届けようとしただけで――……っ、ひぎゃあああああ!」
弾けるようなアレクの鋭い声に慄きつつ、事に至った経緯を説明しようとしたのだけれど、またしても空に激しい稲光が閃き、その直後、どーんっ、と鼓膜を震わせた雷鳴に悲鳴を上げると、私はアレクのコートの中に頭を突っ込んでいた。
アレクの雷声も怖いが、本家本元の雷はもっと怖い。
ぎゅうううう、と目を閉じて、アレクのコートにしがみついていたら、掴んでいた腕から離れたアレクの手が、そのまま背中に触れた。
壊れやすいガラス細工に触れるみたいなその感触に、閉じていた瞼を、そろり、と開けば、どこか思いつめたような表情をしたアレクと視線がかち合う。
「――……とにかく、このままでは二人とも風邪をひいてしまう。どこか風雨を凌げる場所に移動するぞ」
「う……うん、わかった」
シルヴィアナさんから預かった本も渡さなきゃいけないしな、と思いながら、私は、こくり、と頷いた。
「ありがとうございます。シルヴィアナさん。毎回、助かりますー」
レナードが書いたメモと一緒に、厚みのある色褪せた表紙の本を二冊持ってきてくれたのは、王立図書館で働く従業員のシルヴィアナさんだ。
王都アリルアの街外れに位置する小高い丘のてっぺんに、ででん、と聳える、広大な敷地面積を誇る城塞には、王様一族が住まう煌びやかな宮殿を始め、遠方から訪れた上流階級の人たちが宿泊するための来賓館や、王立騎士団の施設など、様々な機能を持つ建物が集約されている。
そんな城塞の一角に建つ王立図書館は、地上五階建ての大きな建物で、空に向かって高く聳え建つ尖塔を除けば、城塞の中に点在する施設の中では、一番の高さを誇る建物だ。
その最上階には360度の抜群の眺望が楽しめる展望テラスが設けられ、一般に向けて開放されているため、王立図書館はいつも多くの人たちで賑わっている。
五階建ての立派な建物に蔵書されている本の数は、ざっと見積もっても、三十万冊以上はあるらしく、印刷技術がそこまで大きく発展していないこの世界に於いて、三十万冊を超える本を収納しているのは、とんでもなく、すごいことらしい。
シルヴィアナさん曰く、セラフィリア随一の大国であるミストリア帝国でさえ、ここまでの蔵書数を誇る図書館は擁していないらしく、広い館内を案内する際、シルヴィアナさんはいつも得意げに「ここは世界に誇れる図書館なのよ」と話しているそうだ。
五つの階層から成る王立図書館は、階ごとに細かくカテゴリーが分けられていて、各フロアには読み物の専門家である司書さんを始め、数多くの従業員さんが働いている。
シルヴィアナさんも、多くいる従業員のうちの一人で、誰でも立ち入ることができる二階フロアで――ちなみに展望テラスを除く、三階から五階までは専門書のフロアになっていて、許可証がないと立ち入りが認められない――おもに施設内の案内やカウンター業務を行っている司書さんだ。
週に三回くらいのペースで通っているうちに、仲良くなった従業員さんは、他にもいるのだけれど、スイーツ大好き! という共通点があるシルヴィアナさんとは、休みの日に一緒にスイーツ店巡りをするくらい――ありがたいことに毎回シルヴィアナさんにご馳走してもらっている。いやはや申し訳ない限りである――大の仲良しなのだ。
「毎回レナードのお使いに駆り出されて、ミオちゃんも大変ねえ」
「でもこうやってお使いするのも、私に与えられた仕事の一つだし、仕事がてら外出もできるし、何よりシルヴィアナさんに会えるから、私としては全然苦じゃないですよ。むしろ王立図書館に行けるのが楽しみなくらい!」
「ふふふふふ。ミオちゃんは本当に仕事熱心ねえ」
「三食ご飯付きおやつ付きで、施設に住まわせてもらってるので、その分はしっかり働いて返さないと、ですからねー」
「そうなのね。ところでミオちゃん。お使いついでに、ちょっと頼まれごとを引き受けてくれないかしら?」
「もちろん、構わないですよ! 頼まれごとって何ですか?」
文字が読めない私に代わって、いつも本を探してきてくれるし、美味しいスイーツも、何度か、ご馳走してもらっているから、二つ返事でシルヴィアナさんの依頼を引き受ければ、シルヴィアナさんはカウンターの後ろの棚から、本を一冊抜き取ると、はい、と手渡してくれた。
「アレクからも、急ぎの配達を頼まているんだけど、今日は皆、朝からバタバタしていて、しばらく手が離せそうにないのよね。悪いんだけど、寄宿舎まで届けてくれないかなあ? もちろん、タダで、とは言わないわ」
依頼の詳細を話しながら、上着の胸ポケットから、横長の紙切れを取り出すと、シルヴィアナさんは、じゃーん! と言って、にんまりと笑みを浮べると、指先に摘まんだ紙切れの表側を、ぴらり、と私の方に向けた。
横長の紙切れはどうやらお手製のチケットのようだ。
女子受けが良さそうな淡いピンク色を基調とした紙の表には、可愛らしいパフェやケーキのイラストが描き添えられていて、紙のど真ん中には派手な色遣いで大胆に描かれたデコレーション文字が踊っている。
カラフルな色合いで描かれたそれは、こちらの世界の文字が読めない私でも知っている、西大陸界隈では超有名なスイーツ店『ラ・ヴィエイユ』のロゴだ。
「『ラ・ヴィエイユ』の新作スイーツ試食会のチケット当てちゃったんだー♡ 来週の週末開催されるんだけど、ミオちゃんも、もちろん行くわよね?」
「えっ!? 私も一緒に行っちゃっていいんですか!?」
「もちろん、いいに決まってるじゃない! 待ち合わせ時間とかは改めて後日決めましょう。そういうことでミオちゃん、その本、騎士団寄宿舎まで届けてね」
「はい! わかりました!」
超人気スイーツ店『ラ・ヴィエイユ』の新作スイーツが食べられるなんて楽しみー! とウキウキしつつ、シルヴィアナさんから預かった本を小脇に挟むと、私は意気揚々、騎士団寄宿舎へと向かった。
***
「うわあー、ものすごく天気悪いなあ。雨が降らないうちに、急いで寄宿舎へ行かなきゃ」
今日は朝起きたときから、ずっと雲行きが怪しくて、いつ雨が降り出しても、おかしくないくらい、天気が悪かったのだけれど、王立図書館から出てくる頃には、天気はさらに悪化していて、空は重く垂れ下がる灰色の分厚い雲に覆い尽くされ、どんよりを通り越して、辺りはかなり薄暗くなっていた。
いつもなら図書館の出入り口付近は、展望テラスを利用する人たちで、賑わっているのだけれど、今にも泣き出しそうな空模様のせいか、閑散としており、たまにすれ違う人も、いつ降り出すか分からない雨を避けようと、足早に去ってゆく。
どこかで雷雲が発生しているのか、ごろごろ、と鳴る雷の低い音が、暗雲立ちこめる空の遠いところから、ときおり、聞こえてくる。
寄宿舎に着いたら雨具を借りて帰ろう。
そんなことを思いつつ、出てきたばかりの王立図書館に背中を向け、お城の北側へと向かう小道を、足早に突き進む。
小高い丘のてっぺんに造られた強固な城塞は、とてつもなく広く、セラフィリアに飛ばされたばかりの頃は、しょっちゅう道に迷っては遭難し、騎士団に所属する騎士の皆様方には、よくお世話になったものだ。
遭難するたびに、毎回のごとく、アレクにお説教を喰らっていた方向音痴な私も、今ではすっかり学習し、よく足を運ぶ騎士団寄宿舎と王立図書館へは、目を瞑ってでも行けるくらいだ。
いや、嘘を吐きました。
目を瞑って歩いたりなんてできません。
などと一人ボケツッコミを咬ませつつ、舗装されていない小道に盛られた土を、ざくざく、と踏み締めながら、寄宿舎へと向かっていたら。
「――……それで彼女にはいつ会わせてくれるんだい? アレクシオ」
緩やかな傾斜の坂道の途中に差しかかった辺りで、どこからか聞こえてきたその声に、私は、ぴたり、と立ち止まった。
(あれ? 今、“アレクシオ”って言ったよね?)
アレクの名前を発した主に関しては、まったく覚えがないのだけれど、シルヴィアナさんから預かっていた本のこともあって、私は灌木の茂みを小さく掻き分けると、わずかにできた隙間から、そろり、と声がした方を覗き込んだ。
茂みの向こう側には、ちょっとした休憩が取れる、簡素な建屋が設けられている。その建屋の下に向かい合うように二つの影が、すうー、と伸びている。
私からは背中しか見えないけれど、ふくらはぎが隠れるくらい、丈の長い黒のコートと、吹く風に靡く漆黒の艶やかな髪は間違いなくアレクだ。
そうしてもう一人。
アレクの向かい側に立つのは、ちょっと神経質そうな面持ちをした、ワンレンショートボブの美形だ。
シャープな線を描く輪郭にかかる髪は、色素が抜けたような白銀で、細いフレームの眼鏡のレンズ越しに覗く瞳は、透明感のある青みがかった淡い緑色をしていて、とても神秘的だ。
女性のような美しさを持つ細身の美形ではあるが、半開きの薄い唇から洩れる低い声は、男性そのもので、神経質そうなその表情は、どことなく冷たさを漂わせていて、ちょっと近寄りがたい雰囲気を醸し出している。
柔らかそうな布地で仕立てられた衣装には、金と銀の糸で施された華やかな文様の刺繍が浮かび上がり、襟元や袖口には高価そうな石があしらわれ、王様、とまではいかなくても、それなりに高貴な身分であることは一目瞭然だ。
シルヴィアナさんから預かった本を渡して、さっさと退散しようと思ったのだが、対峙する二人の間には、ぴりぴりとした空気が張り詰めていて、やあ! と気軽に顔を出せるような雰囲気ではない。
時間をおいて出直そうかと思ったものの、何の話をしてるんだろう、と興味の方が先に立ち、私は灌木の茂みに隠れるように、しゃがみ込むと息を潜めた。
盗み聞きなんて趣味が悪いなあ、と思いつつも、会話をする二人からは茂みに遮られて、こちら側は見えないのをいいことに、全神経を鼓膜に集中させて、二人の会話に耳を欹てる。
「もちろん、ヴィクトール卿相殿のご都合に合わせますよ。ですが、お忙しいご身分の上、すぐに日程を調整されるのは、難しいのではありませんか?」
「確かにまあ日程は詰まっているけれど、優先すべき事項ってものがあるだろう?」
「それは彼女と面会することが、最優先事項、だという、お考えなのでしょうか?」
「ああ、そうだよ。これは僕、独自の見解だけど、その彼女ってのが『月に呼ばれし異端者』である可能性を、どうしても捨て切れないんだよね」
鼻にかけたような物言いをする彼はヴィクトールという名前らしい。
卿相っていう役職が、どれくらい偉いのかは分からないけれど、それでも第一騎士団師団長っていう肩書きを持つアレクが、あれほど丁寧な対応をしているということは、ヴィクトールという人は、それなりの地位に就く人なのだろう。
とそんなことを考えていたら、ぽつり、ぽつり、と、大粒の雨が降ってきた。
降り出した雨は瞬く間に横殴りの強い雨へと変わってゆく。
それだけでなく、遠くで聞こえていたはずの雷の音までもが、徐々に近づいてきた。
冷たい雨に打たれながら、やっぱり盗み聞きなんてするんじゃなかった、と思いっきり後悔したけれど、いまさら顔を出すわけにもいかない。
早く会話が終わることを祈りつつ、私は二人のやり取りを聞き続けることにした。
「さすがに今すぐに連れてこい、とは言わないよ。彼女とやらの都合もあるだろうし、アレクシオだって色々と準備があるだろう? そうだなあ、少し猶予を持たせて、明後日の昼に顔合わせってのはどうだい?」
「そうですね。少し急な話ですが、明日にでも彼女と話をして、都合が合うよう調整しておきますよ。ヴィクトール卿相殿」
「君は本当に話が早くて助かるよ。おや、雨が降ってきたみたいだな。じゃあ、僕はこれで帰らせてもらうよ。彼女にもよろしく伝えておいてくれよ、アレクシオ」
こちらに背中を向けて立つアレクの肩を、ぽん、と叩いて、ヴィクトールは雨を避けるようにして、私がいる方とは反対の道を駆け去ってゆく。
意外にも呆気なく終わった会話に、ほう、と胸を撫で下ろしつつ、どこか雨が凌げそうな場所まで移動しようと、そろり、と腰を浮かして、その直後、頭の真上で、ぴかり、と眩い閃光が走ったかと思えば、耳を劈く大きな雷鳴が轟いた。
「き……きゃあああああああ!!」
「――――っ、美緒!? ってお前、こんなところで何をしているんだ!」
あまりにも間近で鳴り響いた雷にびっくりして、すぐそこにアレクがいることも忘れて悲鳴を上げれば、血相を変えたアレクが、灌木の茂みを掻き分けて、駆け寄ってくる。
盗み聞きをしていたことに気づいて、ぶちぎれたのかと思い、やばい! 殴られる! と、ぎゅうっ、と目を瞑りつつ、頭をガードしようとして、持ち上げた腕を、ありえないくらい強い力で、アレクが引っ掴む。
「お前、いつからそこにいたんだ!」
「ご、ごごごごご、ごめんなさいっ! 盗み聞きをするつもりはなかったの! シルヴィアナさんから預かった本を届けようとしただけで――……っ、ひぎゃあああああ!」
弾けるようなアレクの鋭い声に慄きつつ、事に至った経緯を説明しようとしたのだけれど、またしても空に激しい稲光が閃き、その直後、どーんっ、と鼓膜を震わせた雷鳴に悲鳴を上げると、私はアレクのコートの中に頭を突っ込んでいた。
アレクの雷声も怖いが、本家本元の雷はもっと怖い。
ぎゅうううう、と目を閉じて、アレクのコートにしがみついていたら、掴んでいた腕から離れたアレクの手が、そのまま背中に触れた。
壊れやすいガラス細工に触れるみたいなその感触に、閉じていた瞼を、そろり、と開けば、どこか思いつめたような表情をしたアレクと視線がかち合う。
「――……とにかく、このままでは二人とも風邪をひいてしまう。どこか風雨を凌げる場所に移動するぞ」
「う……うん、わかった」
シルヴィアナさんから預かった本も渡さなきゃいけないしな、と思いながら、私は、こくり、と頷いた。