紅き月夜に 永遠の想い~運命に導かれた月夜の出逢い~
動き出した歯車は誰にも止められない。
どこをどう走ったのか。今、自分がどこにいるのか。
それさえも分からない。
気がついたら、私は街灯りがほとんど届かない薄暗い民家の軒下で、膝を抱えて座り込み、濡れきった身体を両腕で抱き締めていた。
雷鳴を伴って降り頻る雨は、身体から容赦なく、体温を奪ってゆき、もう自分の身体の温もりを感じることすらできない。
指先も、唇も、頬を伝う涙さえも冷たく、吐き出す息も、真っ白に染まっている。
自分にできることといえば、感覚がなくなり、力の入らない指先で、震えが止まらない身体を、ただ抱き締めることくらいだ。
―――――冷たい。
雨ってこんなにも冷たかったっけ?
白い息を吐き出しながら、擦れる視界で降り頻る雨を見上げる。
(このまま……雨に打たれ続けたら寒さで死んじゃうかな……でも)
閉じた瞼から、溢れた涙が、ぱたぱた、と落ちてゆく。
(――……もう、このまま、死んでもいいや)
自分はこんなにもネガティブキャラだっただろうか、と思いながらも、底なし沼にハマったみたく、思考はどんどんと深みにハマってゆく。
向かうところ敵なしのチート能力を手にした勇者さまだとか、荒んだ世界に希望を与える聖女さまだとか、そういうありがちな設定で、異世界にぶっ飛ばされたわけではなさそうだな、とは思っていたけれど、まさかの世界を無に還すとかっていう、意味の分からない破滅フラグを持っていただなんて、さすがにそれは笑えない。
しかも異世界にぶっ飛ばされて、一か月半近くも経ってから、あなたの役目は世界を破滅に導くことです、とか、宣告されても、そんなの信じられるわけがないじゃないか。
だって、私、孤児院で子供たちとまったりスローライフを楽しんでいたんだよ?
仲良くなった図書館司書のシルヴィアナさんとスイーツ店巡りとか楽しんでたんだよ?
不慣れなことばかりだけれど、それでも毎日の暮らしを、それなりに楽しんでいたのに、最終的に行き着く先は、この世界を破滅させることだなんて、そんなの言われても信じられないし、そんな役目を遂行するなんて絶対にいやだ。
破滅エンド不可避だっていうのなら、このまま、雨に打たれ続けて、寒さで死んじゃった方が全然マシだ。
(……つーか、異端者を抹殺するために赴いたとか言ってたっけ)
寒さに打ち震えながら、アレクが口にしていたことを、ふと思い出す。
たまに悪ふざけをしたりするけれど、アレクの性格から考えて、人を絶望のどん底に突き落とすような、質の悪い冗談を言ったりはしないだろう。
だとしたら、彼が自白したことは、すべて真実ということだ。
(……でも何で殺さなかったんだろう)
アレクの目的は『月に呼ばれし異端者』を抹殺することだったはずだ。だけど私は死んだりなんかしていない。というか、一か月半近く経った今でも、こうして生きている。
彼なりに何か考えがあってのことなのかもしれない、とそんなことを思ったが、今はそんなのどうだっていいことだ。
(私、これからどうしたらいいんだろう)
もし自分が本当に『月に呼ばれし異端者』であるならば、のこのこと孤児院に戻るわけにはいかない。
やっぱりこのまま雨に打たれ続けて寒さで死ぬのが、この世界の人たちにとっても、本人にとっても、一番良い最高の結末なのではなかろうか。
と、そんなことを考えていたら。
「――……っ、美緒!」
雨の音に混じって飛び込んできた声が、どんどんネガティブ思考へとハマってゆく私の意識を引き戻した。
驚いて声がした方へ目を向けると、肩を大きく上下させたアレクが立っている。
その全身を降り頻る冷たい雨に濡れそぼらせて、白い息を吐き出しながら、ゆっくりと近づいてくると、アレクは私から少し距離を置いて立ち止まった。
「美緒……帰ろう」
ひどく苦しげな表情で見下ろしながら、アレクが、すうっ、と手を差し伸べる。
アレクの手に縋りつけたら、どんなにいいだろう。
一瞬、そんなことを考えて、けれど反射的に立ち上がると、私はアレクから逃げ出すように、ふたたび降り頻る雨の中へ飛び込んでいた。
「美緒っ!」
後ろでアレクの声がしたけれど、私は振り向かない。
ただ、ただ、前に向かって、がむしゃらに走るだけ。
自分の身体のどこにこんな力が残っていたのだろう? と思いつつ、路地の入り組んだ細い道を、ただひたすら、前に向かって走り続ける。
けれど私とアレクとでは体力に歴然とした差があって、アレクはあっという間に追いつくと、振り切ろうとした私の腕を掴んだ。
「美緒! こんな時間から、どこに行くんだ!」
「――……っ、やだ! 離してっ!」
「だめだ、美緒。帰るんだ」
「帰るって、どこに? 私が帰る場所なんてどこにもないじゃない! 離して! 離してよ! 私がどこで何をしようとアレクには関係ないじゃない!」
感情を抑え切れず、咽喉が張り裂けそうなくらい、声を張り上げて怒りをぶつける。けれどアレクは手を離そうとはしない。
「関係ないことないだろ! どこに行く気だ? お前にどこか行く当てがあるのか!?」
「――……っ、離してっ! 何にも聞きたくない! アレクの顔なんて見たくないっ!」
梃子でも放すつもりはないらしいアレクの胸を叩きながら、じたばたともがいて振り切ろうとしたものの、逆に掴まれていた腕をもの凄い力で引っ張られてしまい、気がついたら、息もできないくらい強く、アレクの腕の中に抱き締められていた。
「や……離して! 離してったら離してよ!」
不意打ちのそれに驚きつつ、痛いくらい強く抱きしめるアレクの腕から逃れようと、激しく抵抗するものの、どんなにもがこうが、暴れようが、アレクは離してくれない。
それどころか、背中に回した腕に力を込めると、アレクは嫌がる私をさらに強く掻き抱いた。
「聞きたくないのなら何も話さない。見たくないのなら、俺は二度とお前の前に姿を現さない。だけど、どこにも行く当てのないお前をこのまま放って置けないんだ! 美緒、頼む。頼むからレナードの所へ戻ってくれ!」
「――……っ、やだっ、離してっ! 私に構わないでよ!」
どこまでも食い下がってくるアレクを、有りっ丈の声を振り絞って拒むなり、腕を掴むアレクの手の力が、ほんの一瞬、緩んだ。
その隙を突いて、アレクの胸を突き飛ばすと、後ろに飛びずさり、私は懐に隠し持っていた小型のナイフを手に取っていた。
それは数日前、ハイゼンティアで出会ったレイチェルさんが、護身用に、と渡してくれたものだ。
お守り代わりにと肌身離さず、持っていたそれをこんな風な形で使うなんて、と思いながら、鞘に収まっていたナイフを引き抜くと、私は磨き上げられた刀先を、自分の喉へと突き立てた。
「馬鹿な真似はやめろ! 美緒! それをこっちに渡せ!」
「近寄らないで! それ以上、近づいたら、私、命を絶つから!」
「――……っ、美緒、」
鋭利なナイフの刃の先を喉に突き立てながら、近づこうとするアレクを牽制すれば、藍色の瞳を揺らして険しい表情を浮かべたものの、アレクは一歩後ろへと退く。
なんでこんなことになったんだろう、と物悲しくなりつつも、いまさら後にも引けず、
「ちょうど良かったじゃない。だってアレクは『月に呼ばれし異端者』を殺すつもりだったんでしょう?」
「それは違う」
「でも国王陛下に命を受けたって、そう言ったのはアレクだよ?」
喉にナイフを突き立てたまま、冷静になってきた頭で、そう問いかければ、私をまっすぐに見返して、アレクは、ああ、そうだと頷く。
「“異端者”はこの世に災いを齎す厄介なものだから、国へは立ち入らせるな。見つけ次第、その場で抹殺しろ、と陛下から命を受けたのは確かだ。だから月蝕の兆候が見られたと報告を受けるたび、そういう心づもりで、いつもオルレーヌの丘へ向かっていた。忌み嫌われる存在だと聞いていたから、人ならざる化け物か、人の心など一切持たぬ冷酷非道な悪党が現れるかと、そう思っていたから。だけど、そうではなかった。
あの日、月の光に導かれてオルレーヌの丘に落ちてきたのは、花すらも折らぬような、どこにでもいる普通の少女だった。俺だって人の心を持っている。たとえ、それが絶対的な存在である国王陛下の命であろうと、何の罪も犯していない人間を斬ることなんてできない。だから様子を見ようと思った。
もちろん少しでも危険な因子が見られるようだったら、その場で斬り捨てるつもりだった。だけど美緒。ここまでの一月半、ずっとお前を見続けてきたが、お前から邪な感情や考えは一切感じられなかった。これが俺が『月に呼ばれし異端者』であるお前を殺せなかった理由だ」
話している間、一度だって視線を逸らすことなく、藍色の瞳をまっすぐに向けて、最後まで言い切ったアレクの強い想いが、すとん、と胸の奥まで落ちてくる。
力強く響いた声に絶望の底から引き上げられたような気がして、ぶわり、と涙が溢れ出す。
からん、と金属音を立てて、力を失くした指から、滑り落ちたナイフを拾い上げ、膝から崩れ落ちた私の目線に合わせるように身を屈めると、アレクは私の顔を覗き込んだ。
「――……美緒、」
名前を呼ぶ声にも反応できずにいたら、そうろり、と腕を伸ばしたアレクが止めどなく、涙が溢れ落ちる頬に、そっと触れる。
指先も、唇も、頬を伝う涙さえも冷たく感じるのに、アレクの指が優しく触れてくれる場所だけはひどく温かい。
「悪かった。こんな風にお前を泣かせるつもりはなかった」
頬に触れるアレクの指の温もりに心地良さを感じていたら、くいっ、と肩を引き寄せられる。そのまま、アレクの胸の中に身を委ねようとして、その矢先。
「――……けっ、ただの痴話喧嘩かと思って聞いていたら、なかなか面白い話をしてるじゃねえか」
不穏な響きを持つその声色に、びくり、と身体を強張らせながら、ゆっくりと見上げた先にいたのは、燃え盛る炎のような真っ赤な髪と、氷のように冷たい紫紺の瞳を持つ男――ディハルトだった。
それさえも分からない。
気がついたら、私は街灯りがほとんど届かない薄暗い民家の軒下で、膝を抱えて座り込み、濡れきった身体を両腕で抱き締めていた。
雷鳴を伴って降り頻る雨は、身体から容赦なく、体温を奪ってゆき、もう自分の身体の温もりを感じることすらできない。
指先も、唇も、頬を伝う涙さえも冷たく、吐き出す息も、真っ白に染まっている。
自分にできることといえば、感覚がなくなり、力の入らない指先で、震えが止まらない身体を、ただ抱き締めることくらいだ。
―――――冷たい。
雨ってこんなにも冷たかったっけ?
白い息を吐き出しながら、擦れる視界で降り頻る雨を見上げる。
(このまま……雨に打たれ続けたら寒さで死んじゃうかな……でも)
閉じた瞼から、溢れた涙が、ぱたぱた、と落ちてゆく。
(――……もう、このまま、死んでもいいや)
自分はこんなにもネガティブキャラだっただろうか、と思いながらも、底なし沼にハマったみたく、思考はどんどんと深みにハマってゆく。
向かうところ敵なしのチート能力を手にした勇者さまだとか、荒んだ世界に希望を与える聖女さまだとか、そういうありがちな設定で、異世界にぶっ飛ばされたわけではなさそうだな、とは思っていたけれど、まさかの世界を無に還すとかっていう、意味の分からない破滅フラグを持っていただなんて、さすがにそれは笑えない。
しかも異世界にぶっ飛ばされて、一か月半近くも経ってから、あなたの役目は世界を破滅に導くことです、とか、宣告されても、そんなの信じられるわけがないじゃないか。
だって、私、孤児院で子供たちとまったりスローライフを楽しんでいたんだよ?
仲良くなった図書館司書のシルヴィアナさんとスイーツ店巡りとか楽しんでたんだよ?
不慣れなことばかりだけれど、それでも毎日の暮らしを、それなりに楽しんでいたのに、最終的に行き着く先は、この世界を破滅させることだなんて、そんなの言われても信じられないし、そんな役目を遂行するなんて絶対にいやだ。
破滅エンド不可避だっていうのなら、このまま、雨に打たれ続けて、寒さで死んじゃった方が全然マシだ。
(……つーか、異端者を抹殺するために赴いたとか言ってたっけ)
寒さに打ち震えながら、アレクが口にしていたことを、ふと思い出す。
たまに悪ふざけをしたりするけれど、アレクの性格から考えて、人を絶望のどん底に突き落とすような、質の悪い冗談を言ったりはしないだろう。
だとしたら、彼が自白したことは、すべて真実ということだ。
(……でも何で殺さなかったんだろう)
アレクの目的は『月に呼ばれし異端者』を抹殺することだったはずだ。だけど私は死んだりなんかしていない。というか、一か月半近く経った今でも、こうして生きている。
彼なりに何か考えがあってのことなのかもしれない、とそんなことを思ったが、今はそんなのどうだっていいことだ。
(私、これからどうしたらいいんだろう)
もし自分が本当に『月に呼ばれし異端者』であるならば、のこのこと孤児院に戻るわけにはいかない。
やっぱりこのまま雨に打たれ続けて寒さで死ぬのが、この世界の人たちにとっても、本人にとっても、一番良い最高の結末なのではなかろうか。
と、そんなことを考えていたら。
「――……っ、美緒!」
雨の音に混じって飛び込んできた声が、どんどんネガティブ思考へとハマってゆく私の意識を引き戻した。
驚いて声がした方へ目を向けると、肩を大きく上下させたアレクが立っている。
その全身を降り頻る冷たい雨に濡れそぼらせて、白い息を吐き出しながら、ゆっくりと近づいてくると、アレクは私から少し距離を置いて立ち止まった。
「美緒……帰ろう」
ひどく苦しげな表情で見下ろしながら、アレクが、すうっ、と手を差し伸べる。
アレクの手に縋りつけたら、どんなにいいだろう。
一瞬、そんなことを考えて、けれど反射的に立ち上がると、私はアレクから逃げ出すように、ふたたび降り頻る雨の中へ飛び込んでいた。
「美緒っ!」
後ろでアレクの声がしたけれど、私は振り向かない。
ただ、ただ、前に向かって、がむしゃらに走るだけ。
自分の身体のどこにこんな力が残っていたのだろう? と思いつつ、路地の入り組んだ細い道を、ただひたすら、前に向かって走り続ける。
けれど私とアレクとでは体力に歴然とした差があって、アレクはあっという間に追いつくと、振り切ろうとした私の腕を掴んだ。
「美緒! こんな時間から、どこに行くんだ!」
「――……っ、やだ! 離してっ!」
「だめだ、美緒。帰るんだ」
「帰るって、どこに? 私が帰る場所なんてどこにもないじゃない! 離して! 離してよ! 私がどこで何をしようとアレクには関係ないじゃない!」
感情を抑え切れず、咽喉が張り裂けそうなくらい、声を張り上げて怒りをぶつける。けれどアレクは手を離そうとはしない。
「関係ないことないだろ! どこに行く気だ? お前にどこか行く当てがあるのか!?」
「――……っ、離してっ! 何にも聞きたくない! アレクの顔なんて見たくないっ!」
梃子でも放すつもりはないらしいアレクの胸を叩きながら、じたばたともがいて振り切ろうとしたものの、逆に掴まれていた腕をもの凄い力で引っ張られてしまい、気がついたら、息もできないくらい強く、アレクの腕の中に抱き締められていた。
「や……離して! 離してったら離してよ!」
不意打ちのそれに驚きつつ、痛いくらい強く抱きしめるアレクの腕から逃れようと、激しく抵抗するものの、どんなにもがこうが、暴れようが、アレクは離してくれない。
それどころか、背中に回した腕に力を込めると、アレクは嫌がる私をさらに強く掻き抱いた。
「聞きたくないのなら何も話さない。見たくないのなら、俺は二度とお前の前に姿を現さない。だけど、どこにも行く当てのないお前をこのまま放って置けないんだ! 美緒、頼む。頼むからレナードの所へ戻ってくれ!」
「――……っ、やだっ、離してっ! 私に構わないでよ!」
どこまでも食い下がってくるアレクを、有りっ丈の声を振り絞って拒むなり、腕を掴むアレクの手の力が、ほんの一瞬、緩んだ。
その隙を突いて、アレクの胸を突き飛ばすと、後ろに飛びずさり、私は懐に隠し持っていた小型のナイフを手に取っていた。
それは数日前、ハイゼンティアで出会ったレイチェルさんが、護身用に、と渡してくれたものだ。
お守り代わりにと肌身離さず、持っていたそれをこんな風な形で使うなんて、と思いながら、鞘に収まっていたナイフを引き抜くと、私は磨き上げられた刀先を、自分の喉へと突き立てた。
「馬鹿な真似はやめろ! 美緒! それをこっちに渡せ!」
「近寄らないで! それ以上、近づいたら、私、命を絶つから!」
「――……っ、美緒、」
鋭利なナイフの刃の先を喉に突き立てながら、近づこうとするアレクを牽制すれば、藍色の瞳を揺らして険しい表情を浮かべたものの、アレクは一歩後ろへと退く。
なんでこんなことになったんだろう、と物悲しくなりつつも、いまさら後にも引けず、
「ちょうど良かったじゃない。だってアレクは『月に呼ばれし異端者』を殺すつもりだったんでしょう?」
「それは違う」
「でも国王陛下に命を受けたって、そう言ったのはアレクだよ?」
喉にナイフを突き立てたまま、冷静になってきた頭で、そう問いかければ、私をまっすぐに見返して、アレクは、ああ、そうだと頷く。
「“異端者”はこの世に災いを齎す厄介なものだから、国へは立ち入らせるな。見つけ次第、その場で抹殺しろ、と陛下から命を受けたのは確かだ。だから月蝕の兆候が見られたと報告を受けるたび、そういう心づもりで、いつもオルレーヌの丘へ向かっていた。忌み嫌われる存在だと聞いていたから、人ならざる化け物か、人の心など一切持たぬ冷酷非道な悪党が現れるかと、そう思っていたから。だけど、そうではなかった。
あの日、月の光に導かれてオルレーヌの丘に落ちてきたのは、花すらも折らぬような、どこにでもいる普通の少女だった。俺だって人の心を持っている。たとえ、それが絶対的な存在である国王陛下の命であろうと、何の罪も犯していない人間を斬ることなんてできない。だから様子を見ようと思った。
もちろん少しでも危険な因子が見られるようだったら、その場で斬り捨てるつもりだった。だけど美緒。ここまでの一月半、ずっとお前を見続けてきたが、お前から邪な感情や考えは一切感じられなかった。これが俺が『月に呼ばれし異端者』であるお前を殺せなかった理由だ」
話している間、一度だって視線を逸らすことなく、藍色の瞳をまっすぐに向けて、最後まで言い切ったアレクの強い想いが、すとん、と胸の奥まで落ちてくる。
力強く響いた声に絶望の底から引き上げられたような気がして、ぶわり、と涙が溢れ出す。
からん、と金属音を立てて、力を失くした指から、滑り落ちたナイフを拾い上げ、膝から崩れ落ちた私の目線に合わせるように身を屈めると、アレクは私の顔を覗き込んだ。
「――……美緒、」
名前を呼ぶ声にも反応できずにいたら、そうろり、と腕を伸ばしたアレクが止めどなく、涙が溢れ落ちる頬に、そっと触れる。
指先も、唇も、頬を伝う涙さえも冷たく感じるのに、アレクの指が優しく触れてくれる場所だけはひどく温かい。
「悪かった。こんな風にお前を泣かせるつもりはなかった」
頬に触れるアレクの指の温もりに心地良さを感じていたら、くいっ、と肩を引き寄せられる。そのまま、アレクの胸の中に身を委ねようとして、その矢先。
「――……けっ、ただの痴話喧嘩かと思って聞いていたら、なかなか面白い話をしてるじゃねえか」
不穏な響きを持つその声色に、びくり、と身体を強張らせながら、ゆっくりと見上げた先にいたのは、燃え盛る炎のような真っ赤な髪と、氷のように冷たい紫紺の瞳を持つ男――ディハルトだった。