紅き月夜に 永遠の想い~運命に導かれた月夜の出逢い~
すみません。またしても状況が掴めないのですが(ってか、これ何回目?)
どれくらい眠っていたのかはわからない。
けれど、かなり長い時間、眠っていたのは確かだろう。
頭はひどく痛いし、身体は鉛でも飲んだかのように、ずしり、と重く、指を一本動かすどころか、睫毛を持ち上げることさえ、億劫に思えるくらい、とにかくものすごく身体が怠い。
(ああ、頭が痛い。それに関節も痛いし、咽喉も痛い。なにこれ。風邪でもひいたのかなあ)
明らかにいつもとは様子が異なる、体調の悪さに戸惑いつつ、とにもかくにも咽喉を潤したい欲求に駆られ、身体を起こそうとしたものの、どうにもこうにも、まったく身体に力が入らない。
確かセラフィリアに飛ばされた直後にも、似たようなことがあったよねえ。
あのときは金縛りに遭ったみたいな感じで、全然動けなかったけれど、今回は気合を入れれば、まぶたくらいは、どうにか持ち上げられそうだ。
さすがに気合だけで身体を起こすまでは無理そうだけれど――と、そんなことを思いつつ、私は重たく圧しかかるまぶたをゆっくりと持ち上げた。
真っ黒に塗り潰されていた視界に白みが差し、だんだんと明るくなってゆく。
ぼうっと霞んでいた視界が、徐々に鮮明になってゆき、色や形がしっかりと判別できるくらいまでには、回復したところで、紫水晶をはめ込んだみたいな青みを帯びたアメジストの瞳と視線がかち合った。
私が目を開いたことにひどく驚いたらしい。
「うおわああああああ!」
超至近距離から顔を覗き込んでいたジオルドが、ぎょっと目を見開いて、大きな声を上げたかと思えば、がたり、と派手に椅子を蹴倒して飛び退く。
まるで化け物にでも遭遇したかのようなその反応に、人の顔を見るなり失礼ねえ! と憤慨したものの、あまりにも咽喉が渇きすぎて、思うように声を出すことすらできない。
喉が渇いたようー! という要求さえ、口に出すことができず、ちょっと困り果てていたら、凍結状態から復帰したらしいジオルドが、血相を変えて後ろを振り向いた。
「おい! 目を覚ましたぞ!」
弾けるようなジオルドのその声に。
「え!? それは本当か!?」
「おや、まあ! ようやく目を覚ましたのかい?」
「わあーい! ミオおねえちゃん、起きたんだあ!」
それぞれ三つの異なる声が重なり合う。
と同時にどたばたと複数の足音が響いたかと思えば、ひょいひょいひょい、と見知った四つの顔が、一斉に私の顔を覗きこんだ。
そのうちの一人は、言わずもがな、ジオルドだ。
続いて私の視界に映ったのは、ものすごく心配そうな表情で見下ろすレナードの銀色の瞳。
そうして最後に目に入ったのは、同じすみれ色を写したマルティーヌさんとシャルロットの双眸だ。
「お、み……おみ……ず、」
レナードやジオルドはともかくとして、どうして目を覚ましたらば、マルティーヌさんやシャルロットまでもがいるのだろう、と不思議に思いつつ、砂漠で遭難した旅人がごとく、擦れる声をどうにかこうにか振り絞って、咽喉の渇きを訴えれば、真っ先に気づいたマルティーヌさんが、ああ、水だね! と言って、すぐ傍に置いてあった水差しを取ってくれる。
そんなマルティーヌさんを横目に眺めやりつつ、重石でも括りつけたがごとく、気怠い身体をどうにか動かそうと奮闘していたら、私の様子にいち早く気づいてくれたレナードが、起き上がれないでいる私の背中に、クッションを二つばかり挟み込んでくれた。
「ほら、お水だよ。慌てずにゆっくりとお飲み」
やかんのように湾曲した注ぎ口を、薄く開いた唇の合間に差し込んで、マルティーヌさんが器を傾ければ、ひんやりとした感触とともに、流れてきた冷たい水が、渇き切っていた咽喉を潤してくれる。
ゆっくりと飲めと言われたにも関わらず、ごくごくと咽喉を鳴らして、器の中の水を一気に飲み干せば、マルティーヌさんは、おやまあ、と目を丸くさせると、もう一杯飲むかい? と聞く。
その問いかけに、こくこく、と頷けば、そうかい。じゃあ、少し待っておいで、と言い残して、マルティーヌさんは空になった水差しを持って、奥の部屋へと向かう。
圧倒的に不足していた水分を体内に取り込んだら、さっきよりも幾分か気分が落ち着いてきて、私はほう、っと小さく息を吐くと、辺りをゆっくりと見渡した。
まず目に入ってきたのは、ベッドのすぐ真横にある、両開きの大きな窓だ。
燦々(さんさん)と降り注ぐ陽射しを取り込む窓は開け放たれていて、レース布で仕立てられた薄いカーテンが、入り込んできた涼風に煽られ、はたり、とはためく。
窓の外に見える景色に目を向ければ、建物の二階あるいは屋根が連なっているのが見えた。
建ち並ぶ建物の遥か後ろの方には、空に向かって、高く聳え立つ鐘楼も見える。
ちょうどタイミングよく、鐘楼に吊るされた大鐘が、かーん、かーん、かーん、と打ち鳴らされ、澄んだ空気を震わせながら、時を告げる涼やかな鈴の音が、街中の至る場所に響き渡ってゆく。
鐘の音を数えてみたら、十回鳴っていたから、現在の時刻は午前十時を過ぎたくらいだろう。
どうやら大通りに面しているらしく、行き交いする人々の声や、石畳を打ちつけて、ガタゴトと走る車輪の音が、開け放たれた窓の向こうから、ひっきりなしに聞こえてきて、とても賑やかだ。
窓から見える景色を一頻り眺めやり、視線の先を室内へと戻せば、斜向かいにも、大きな窓があることに気づいた。
こちら側の窓も開け放たれていて、降り注ぐ日差しと一緒に入り込んできた風が、シフォンの柔らかなカーテンを、ゆらゆらと揺らしている。
窓辺には三人掛けのソファーが一つと、一人掛けのカウチが三つあり、脚の短いテーブルの上には、可憐な花が生けられた花瓶と、アフタヌーンティーを楽しむためのティースタンドが飾り置かれている。
反対側の壁には、曲線的な装飾が施されたチェストやドレッサー、両開きのワードローブなど、趣のあるアンティーク風の家具が並び置かれ、それ以外のインテリア雑貨や調度品といった小物類も含め、室内にあるほとんどのものが、白もしくは淡いパステルカラーで統一されていて、誰の目から見ても『可愛らしい女性』が使っているだろうことは一目瞭然だ。
どこぞのお姫さまだとか、ご令嬢が使っていそうな雰囲気の可愛らしい部屋は、けれど見覚えがあるものだ。
ほんの数日前、レナードに誘われ、訪れたハイゼンティアで、思いがけないトラブルに巻き込まれてしまい、ちょっとした騒動となったのだが、正しく、今、自分がいるのは、そのとき転がり込んだ街外れに建つ孤児院の一室だ。
あれからまだ一週間も経っていないし、しっかりと覚えているから、記憶違いということはないだろう。
(……でもどうしてマルティーヌさんの部屋にいるんだろう?)
当然までの疑問にぶち当たり、私は思いっきり、首を傾げることとなった。
今、自分のいる場所が、マルティーヌさんの私室であることは、ほぼ間違いないだろう。
となれば、マルティーヌさんやシャルロットがいるのは、当たり前のことなのだが、そうなると、今度はアリルアにいたはずの自分が、どうしてハイゼンティアにいるのだろうか、という疑問が湧いてくる。
しかもなぜだかレナードやジオルドまでもが一緒にいるのだ。
あまりにも不可解な事態に思考が追いつかず、とにもかくにも状況を説明してもらわなければ、と思いつつ、程よい硬さのベッドに肘をつくと、腕に力を入れて、身体を起こそうとした。
……のだけれど。
「――――っ! 痛……っ、!」
腕に力を入れるなり、左肩に激痛が走り、あまりの痛さに声を上げると、私はクッションの上に逆戻りしてしまった。
「大丈夫か!? 美緒!」
「ミオおねえちゃん、だいじょうぶ?」
「ああ、ダメだよ、美緒。少しずつ状態は良くなってきているけれど、完治するまでには、最低でも二週間はかかるんだから、それまでは安静にしていないと――……特に左肩の損傷はひどくて、まともに動かせる状態じゃないんだ。美緒、少し触るよ」
私の声に驚いてジオルドとシャルロットが心配そうに顔を覗き込む。
そんな二人の傍らで、私の怪我の状態を説明すると、レナードはひどく痛む左肩に、手のひらを押し当てると、自動翻訳機では変換されない音色に近いそれ――つまりは『魔法』を詠唱し始めた。
ここ一週間ほどの短い間に、何度も耳にする機会があったから、『魔法』を唱えているのだと、すぐに分かったけれど、やっぱり何度聞いても『魔法』を唱えているというよりは、『唄』を謡っているようにしか思えない、それに耳を傾けていたら、魔法を詠唱し終えたらしい。
澄んだ音色を口遊んでいた唇を閉じるのと、ほぼ同じくして、左肩に押し当てていたレナードの手のひらが淡い光を纏い始めた。
角灯の中で揺らめく蝋燭の火みたく、柔らかい橙色をした光の群れが、レナードの手のひらを介して、ずきずきと痛む左肩に纏わりつく。
その様子を眺めていたら、無数の淡い光たちは、ぱちぱち、と小さな音を立てて弾け飛ぶと、皮膚の中にすうっ、と吸い込まれてゆく。
「な、なに今の、」
「どう? まだ痛む?」
セラフィリアに措いて、魔法の詠唱は日常茶飯事のことだから、それほど珍しくはないのだが、如何せん、自分に対して魔法が施されるというのは、片手で数えられるくらいしか経験がなく、目をぱちくりさせて驚いていたら、顔を覗きこんだレナードに、そんなことを問われ、そこでようやく、腕の痛みがすっかり解消されていることに気がついた。
「あ、ホントだ! 全然痛くない! ほらほら見て! レナード!」
「……って、そんなに動かしちゃダメだよ、美緒。さっき施した魔法は、あくまで感覚を鈍くさせるだけのものであって、怪我そのものが回復したわけじゃないんだから」
どうやら先ほどレナードが施した魔法は鎮痛作用があるものらしい。
声を発することさえ、苦痛に思えるほどの痛みが、一瞬で消え去ったことに驚いて、肩をぐるぐると回しながら、すごーい! 痛くないー! とはしゃいでいたら、慌てたレナードにすぐさま取り押さえられてしまった。
「えー、でも本当に全然痛くないよ?」
「今さっき魔法をかけたばかりだからね。痛くなくて当然だよ。けれど魔法の効力が切れたら、また痛み出すだろうし、二週間は安静にする必要があるくらいの怪我を負っているんだから無理は禁物だよ、美緒。ああ、でも本当に良かった。三日間も目を覚まさないから、みんな心配してたんだ」
「うえええええっ! ……って、私、三日間も寝てたの!?」
「って美緒! 動いちゃダメだって何度も言ってるだろう!」
三日間も眠っていたことを告げられ、驚きのあまり、羽織っていた毛布を跳ねのけて、飛び起きようとしたら、今度という今度こそ、レナードの雷声が、ぴしゃり、と落ちてきた。
滅多と声を荒げないレナードの怒鳴り声に、きゃいん、きゃいん、と尻尾を巻きつつ、目覚めたときにみんなが驚いていた理由も、原因不明の謎の体調不良に見舞われた理由も、やたらと咽喉が渇いていた理由も、何もかもすべてが『三日間も眠っていたから』というのが原因だったことが判明し、ほうっ、と胸を撫で下ろす。
あまりにも体調が悪かったから、変な病気にでも罹ったのではなかろうかと、少し心配になっていたのだが、どうやら取り越し苦労だったようだ。
いやはやしかし三日間も眠り続けてたら、そりゃあ、身体が鈍って気怠く感じるのも当然だよねえ、と一人納得していたら、人間の三大欲求の一つである「食欲」が、猛烈な勢いで脳内に欲求を送りつけてきた。
きゅるるるるるるるるるる、と、それはそれはとんでもなく、派手に腹の虫が鳴き出したのである。
飲まず食わずで三日間も眠り続けていたのだから、腹が減るのも当然であろう、と、くうくうとうるさく鳴く腹を擦って宥めていたら、私とレナードのやり取りを黙って見ていたジオルドが、くっ、と咽喉を小さく震わせたかと思えば、あーっはっはっはっ、と声を立てて豪快に笑いだす。
「……って、なんでそこで笑うのよ! 三日間、何も食べてないんだから、お腹が鳴ってもしょうがないでしょう!」
「確かにまあそうなんだけどさあー、美緒ちゃんくらいの年頃の女の子が、何の恥じらいもなく、他人の前で、そこまで豪快に腹の虫を鳴かせられるとか、普通ならありえないだろ、って思ったら、何だか可笑しくてさあ。いやまあ、そういう気取らないところが、美緒ちゃんの良いところなんだろうけど……って、おい、こら! 暴れるなって!」
笑い過ぎて滲み出た涙を指の腹で拭いつつ、悪びれた風でもなく、失礼な発言を噛ましたジオルドに、むうっ、として、手元にあった枕を引っ掴んで、ビシバシとその胸元をぶん殴っていたら、ゴゴゴゴゴ……という効果音が聞こえてきそうなくらい、静かなる怒りに打ち震えたレナードが、表情筋を強張らせながら、歪に笑う。
「ジオルド副師団長が笑いたくなる気持ちは察しますが、絶対安静が必要な病人に、むやみに刺激を与えるような言動は慎んで頂かないと困るのですが――それから美緒。君も全く懲りていないようだね? もし今度、言いつけを破って、少しでも動いたら、次はベッドに括りつけてでも安静にしてもらうよ?」
恐ろしいまでに引き攣ったその笑みに、ぴきり、と凍りつく。
言いつけをちゃんと守って、もう二度と動きませんから、お助けをばー! と心の中で土下座しつつ、命乞いをしていたら、短く刈り上げた銀色の髪を掻き上げながら、しょうがねえなあ、と呟くと、ジオルドは傍らにいたシャルロットの目線に合わせるよう、膝を折って、屈みこむ。
急にどうしたんだ? とジオルドの動向を窺っていたら、トラウザーズのポケットに手を突っ込むと、ジオルドは中から何かを取り出すと、それをシャルロットの目の前に差し出した。
「ジオルドお兄ちゃん、これはなあに?」
「これはシャルロットが大好きなチョコレートだよ」
「んーと……シャルロットがもらってもいいの?」
「ああ、もちろんさ。これはシャルロットへの贈り物だ」
「わああああああい! ジオルドお兄ちゃん、ありがとうー!」
可愛らしい絵柄の紙に包まれたチョコレートをジオルドから受け取り、屈託のない笑みを満面に咲かせると、シャルロットはドレスのポケットの中に、大切そうにチョコレートを仕舞い込む。
「ところでシャルロットに手伝って欲しいことがあるんだ。聞いてくれるかなあ?」
「お手伝いって、なあに?」
「シャルロットでもできる、とっても簡単なお手伝いだよ。美緒お姉ちゃんが、お腹を空かせているから、温かいスープも一緒に持って来て欲しいって、マルティーヌお婆ちゃんに頼んできて欲しいんだ。お願いできるかな?」
「うん、わかったー! シャルロット、おばあちゃまに伝えてくるね!」
どうやら私の空腹を満たすために、温かいスープを注文してくれたようだ。
ジオルドのその気遣いはとてもありがたいのだが、それならばシャルロットに頼まずとも、自分で行けばいいじゃないかー、と思う私に反して、邪な考えなど一切持たないシャルロットは、チョコレートをもらったお礼とばかり、可憐な色合いのドレスの裾を翻すと、マルティーヌさんがいる奥の部屋へと一目散に駆けてゆく。
素直に言うことを聞いてえらいなあ、とシャルロットの健気さに感嘆しつつ、確認しなければいけないことが、たくさんあったことを思い出し、私は、ここぞとばかり、本題を切り出すことにした。
「ねえ、ねえ。それはそうと、どうして目が覚めたら、ハイゼンティアにいるわけなの?」
「え!? えーっと、それはだなあ……って、おい、レナード」
「ああ、うん……そうだねえ……」
三日間という長い眠りから醒めて、一番最初に疑問に感じたことを聞いただけなのだが、受け答えが、ぎくしゃくとしていて、何だか二人とも様子がおかしい。
奥歯に物が挟まったかのような物言いだけでなく、妙にそわそわとしていて落ち着きがないし、さっきから視線だって合わせようとはしてくれない。
釈然としない二人の態度にやきもきしつつ、今さらながら、アレクの姿が見当たらないことに、違和感を覚えるのと同時に、ディハルトから襲撃を受けた際、猛毒を塗りつけた刃で、アレクが斬りつけられたことを思い出して、急激に不安な気持ちに陥ってしまった。
「ねえっ、アレクは!? アレクは無事なの!?」
頭を過った最悪な結末に泣き出しそうになりながら、ものの五分と経たないうちから、レナードの言いつけを破って、毛布を蹴散らして飛び起きると、私は傍にいたレナードの腕を縋るように掴んでいた。
「――……美緒、」
「レナード、アレク、は?」
「ディハルトから受けた毒に関しては、毒素は完全に抜け切ったから、心配しなくて大丈夫だよ。後遺症が出ることもまずないだろう」
いつの間にか溢れ出していた涙を、指の先で優しく拭いながら、レナードがそんなことを言う。
「解毒……できたんだ。良かった……っ、」
「ただ依然として状況は悪いがな」
アレクが無事だと知って、安堵の息を吐いていたら、今度は難しい表情を浮かべたジオルドが、端的な言葉を挟んできた。
「状況が悪い……って、どういう、こと?」
「ああ、そうだな。一から事細かく説明していたら長くなるから、要件だけを纏めて話そうか。まずはお前がハイゼンティアにいる理由だが、手っ取り早く言えば、アレクからの命令だ」
「アレクの、命令?」
「ああ、そうだ。いいか、美緒。落ち着いて話を聞くんだ。アレクとお前がディハルトから襲撃を受けた翌日の話だ。俺とレナードはアレクに呼び出されて、ありとあらゆる全てのことを打ち明けられた」
「ありとあらゆる全てのこと……って?」
ジオルドが紡ぎ出す言葉の一つ一つを噛み砕くように、端々で発せられる文言の一部を復唱すれば、形よく綺麗に切り揃えられた眉を下げて、ちょっと困ったような表情を浮かべると、ジオルドは黙り込んでしまう。
無意識のうちにオウム返ししてしまったことが、気に食わなかったのだろうか、と戸惑っていたら、何かを吹っ切るかのように、ふう、と小さく息を吐くと、ジオルドは閉ざしていた唇を、ゆるり、と解いた。
「それはつまり――……お前が『月に呼ばれし異端者』であることを、アレクから告げられたんだ」
数秒の沈黙を挟んで、ゆっくりと落ちてきたそれに、心臓が、きゅううううっ、と委縮する。
自分が『月に呼ばれし異端者』であることを、レナードも、ジオルドも、周知していたことを、思いがけない形で知らされ、あまりにも急すぎる展開に、一瞬にして、頭の中が真っ白になってしまう。
さっきまでジオルドの言葉を拾い上げては、オウム返ししていた私が、声を失ったことに気づいて、ジオルドが顔を覗き込む。
「――……美緒、」
自分の名前を呼ぶジオルドの声にも応えられずにいたら、横合いから伸びてきたレナードの大きな手のひらが、かたかたと小さく震える私の手を包み込んだ。
手の甲に伝わった温もりと手のひらの感覚に驚いて、顔を上げれば、夜空に浮かぶ瞬きを閉じ込めたような銀色の瞳と視線がかち合う。
「怖がらないで、美緒。ジオルド副師団長も、俺も、君を糾弾したり、見捨てたり、傷つけるような真似は絶対にしないって約束するから」
敵意がないことを主張するかのように、穏やかな笑みを浮べながら、けれどそれでいて、決して揺らぐことのない強い決意が籠もったレナードのその言葉に、すっかり気が緩んでしまったのか、一度は止まったはずの涙がふたたび溢れ落ちた。
けれど、かなり長い時間、眠っていたのは確かだろう。
頭はひどく痛いし、身体は鉛でも飲んだかのように、ずしり、と重く、指を一本動かすどころか、睫毛を持ち上げることさえ、億劫に思えるくらい、とにかくものすごく身体が怠い。
(ああ、頭が痛い。それに関節も痛いし、咽喉も痛い。なにこれ。風邪でもひいたのかなあ)
明らかにいつもとは様子が異なる、体調の悪さに戸惑いつつ、とにもかくにも咽喉を潤したい欲求に駆られ、身体を起こそうとしたものの、どうにもこうにも、まったく身体に力が入らない。
確かセラフィリアに飛ばされた直後にも、似たようなことがあったよねえ。
あのときは金縛りに遭ったみたいな感じで、全然動けなかったけれど、今回は気合を入れれば、まぶたくらいは、どうにか持ち上げられそうだ。
さすがに気合だけで身体を起こすまでは無理そうだけれど――と、そんなことを思いつつ、私は重たく圧しかかるまぶたをゆっくりと持ち上げた。
真っ黒に塗り潰されていた視界に白みが差し、だんだんと明るくなってゆく。
ぼうっと霞んでいた視界が、徐々に鮮明になってゆき、色や形がしっかりと判別できるくらいまでには、回復したところで、紫水晶をはめ込んだみたいな青みを帯びたアメジストの瞳と視線がかち合った。
私が目を開いたことにひどく驚いたらしい。
「うおわああああああ!」
超至近距離から顔を覗き込んでいたジオルドが、ぎょっと目を見開いて、大きな声を上げたかと思えば、がたり、と派手に椅子を蹴倒して飛び退く。
まるで化け物にでも遭遇したかのようなその反応に、人の顔を見るなり失礼ねえ! と憤慨したものの、あまりにも咽喉が渇きすぎて、思うように声を出すことすらできない。
喉が渇いたようー! という要求さえ、口に出すことができず、ちょっと困り果てていたら、凍結状態から復帰したらしいジオルドが、血相を変えて後ろを振り向いた。
「おい! 目を覚ましたぞ!」
弾けるようなジオルドのその声に。
「え!? それは本当か!?」
「おや、まあ! ようやく目を覚ましたのかい?」
「わあーい! ミオおねえちゃん、起きたんだあ!」
それぞれ三つの異なる声が重なり合う。
と同時にどたばたと複数の足音が響いたかと思えば、ひょいひょいひょい、と見知った四つの顔が、一斉に私の顔を覗きこんだ。
そのうちの一人は、言わずもがな、ジオルドだ。
続いて私の視界に映ったのは、ものすごく心配そうな表情で見下ろすレナードの銀色の瞳。
そうして最後に目に入ったのは、同じすみれ色を写したマルティーヌさんとシャルロットの双眸だ。
「お、み……おみ……ず、」
レナードやジオルドはともかくとして、どうして目を覚ましたらば、マルティーヌさんやシャルロットまでもがいるのだろう、と不思議に思いつつ、砂漠で遭難した旅人がごとく、擦れる声をどうにかこうにか振り絞って、咽喉の渇きを訴えれば、真っ先に気づいたマルティーヌさんが、ああ、水だね! と言って、すぐ傍に置いてあった水差しを取ってくれる。
そんなマルティーヌさんを横目に眺めやりつつ、重石でも括りつけたがごとく、気怠い身体をどうにか動かそうと奮闘していたら、私の様子にいち早く気づいてくれたレナードが、起き上がれないでいる私の背中に、クッションを二つばかり挟み込んでくれた。
「ほら、お水だよ。慌てずにゆっくりとお飲み」
やかんのように湾曲した注ぎ口を、薄く開いた唇の合間に差し込んで、マルティーヌさんが器を傾ければ、ひんやりとした感触とともに、流れてきた冷たい水が、渇き切っていた咽喉を潤してくれる。
ゆっくりと飲めと言われたにも関わらず、ごくごくと咽喉を鳴らして、器の中の水を一気に飲み干せば、マルティーヌさんは、おやまあ、と目を丸くさせると、もう一杯飲むかい? と聞く。
その問いかけに、こくこく、と頷けば、そうかい。じゃあ、少し待っておいで、と言い残して、マルティーヌさんは空になった水差しを持って、奥の部屋へと向かう。
圧倒的に不足していた水分を体内に取り込んだら、さっきよりも幾分か気分が落ち着いてきて、私はほう、っと小さく息を吐くと、辺りをゆっくりと見渡した。
まず目に入ってきたのは、ベッドのすぐ真横にある、両開きの大きな窓だ。
燦々(さんさん)と降り注ぐ陽射しを取り込む窓は開け放たれていて、レース布で仕立てられた薄いカーテンが、入り込んできた涼風に煽られ、はたり、とはためく。
窓の外に見える景色に目を向ければ、建物の二階あるいは屋根が連なっているのが見えた。
建ち並ぶ建物の遥か後ろの方には、空に向かって、高く聳え立つ鐘楼も見える。
ちょうどタイミングよく、鐘楼に吊るされた大鐘が、かーん、かーん、かーん、と打ち鳴らされ、澄んだ空気を震わせながら、時を告げる涼やかな鈴の音が、街中の至る場所に響き渡ってゆく。
鐘の音を数えてみたら、十回鳴っていたから、現在の時刻は午前十時を過ぎたくらいだろう。
どうやら大通りに面しているらしく、行き交いする人々の声や、石畳を打ちつけて、ガタゴトと走る車輪の音が、開け放たれた窓の向こうから、ひっきりなしに聞こえてきて、とても賑やかだ。
窓から見える景色を一頻り眺めやり、視線の先を室内へと戻せば、斜向かいにも、大きな窓があることに気づいた。
こちら側の窓も開け放たれていて、降り注ぐ日差しと一緒に入り込んできた風が、シフォンの柔らかなカーテンを、ゆらゆらと揺らしている。
窓辺には三人掛けのソファーが一つと、一人掛けのカウチが三つあり、脚の短いテーブルの上には、可憐な花が生けられた花瓶と、アフタヌーンティーを楽しむためのティースタンドが飾り置かれている。
反対側の壁には、曲線的な装飾が施されたチェストやドレッサー、両開きのワードローブなど、趣のあるアンティーク風の家具が並び置かれ、それ以外のインテリア雑貨や調度品といった小物類も含め、室内にあるほとんどのものが、白もしくは淡いパステルカラーで統一されていて、誰の目から見ても『可愛らしい女性』が使っているだろうことは一目瞭然だ。
どこぞのお姫さまだとか、ご令嬢が使っていそうな雰囲気の可愛らしい部屋は、けれど見覚えがあるものだ。
ほんの数日前、レナードに誘われ、訪れたハイゼンティアで、思いがけないトラブルに巻き込まれてしまい、ちょっとした騒動となったのだが、正しく、今、自分がいるのは、そのとき転がり込んだ街外れに建つ孤児院の一室だ。
あれからまだ一週間も経っていないし、しっかりと覚えているから、記憶違いということはないだろう。
(……でもどうしてマルティーヌさんの部屋にいるんだろう?)
当然までの疑問にぶち当たり、私は思いっきり、首を傾げることとなった。
今、自分のいる場所が、マルティーヌさんの私室であることは、ほぼ間違いないだろう。
となれば、マルティーヌさんやシャルロットがいるのは、当たり前のことなのだが、そうなると、今度はアリルアにいたはずの自分が、どうしてハイゼンティアにいるのだろうか、という疑問が湧いてくる。
しかもなぜだかレナードやジオルドまでもが一緒にいるのだ。
あまりにも不可解な事態に思考が追いつかず、とにもかくにも状況を説明してもらわなければ、と思いつつ、程よい硬さのベッドに肘をつくと、腕に力を入れて、身体を起こそうとした。
……のだけれど。
「――――っ! 痛……っ、!」
腕に力を入れるなり、左肩に激痛が走り、あまりの痛さに声を上げると、私はクッションの上に逆戻りしてしまった。
「大丈夫か!? 美緒!」
「ミオおねえちゃん、だいじょうぶ?」
「ああ、ダメだよ、美緒。少しずつ状態は良くなってきているけれど、完治するまでには、最低でも二週間はかかるんだから、それまでは安静にしていないと――……特に左肩の損傷はひどくて、まともに動かせる状態じゃないんだ。美緒、少し触るよ」
私の声に驚いてジオルドとシャルロットが心配そうに顔を覗き込む。
そんな二人の傍らで、私の怪我の状態を説明すると、レナードはひどく痛む左肩に、手のひらを押し当てると、自動翻訳機では変換されない音色に近いそれ――つまりは『魔法』を詠唱し始めた。
ここ一週間ほどの短い間に、何度も耳にする機会があったから、『魔法』を唱えているのだと、すぐに分かったけれど、やっぱり何度聞いても『魔法』を唱えているというよりは、『唄』を謡っているようにしか思えない、それに耳を傾けていたら、魔法を詠唱し終えたらしい。
澄んだ音色を口遊んでいた唇を閉じるのと、ほぼ同じくして、左肩に押し当てていたレナードの手のひらが淡い光を纏い始めた。
角灯の中で揺らめく蝋燭の火みたく、柔らかい橙色をした光の群れが、レナードの手のひらを介して、ずきずきと痛む左肩に纏わりつく。
その様子を眺めていたら、無数の淡い光たちは、ぱちぱち、と小さな音を立てて弾け飛ぶと、皮膚の中にすうっ、と吸い込まれてゆく。
「な、なに今の、」
「どう? まだ痛む?」
セラフィリアに措いて、魔法の詠唱は日常茶飯事のことだから、それほど珍しくはないのだが、如何せん、自分に対して魔法が施されるというのは、片手で数えられるくらいしか経験がなく、目をぱちくりさせて驚いていたら、顔を覗きこんだレナードに、そんなことを問われ、そこでようやく、腕の痛みがすっかり解消されていることに気がついた。
「あ、ホントだ! 全然痛くない! ほらほら見て! レナード!」
「……って、そんなに動かしちゃダメだよ、美緒。さっき施した魔法は、あくまで感覚を鈍くさせるだけのものであって、怪我そのものが回復したわけじゃないんだから」
どうやら先ほどレナードが施した魔法は鎮痛作用があるものらしい。
声を発することさえ、苦痛に思えるほどの痛みが、一瞬で消え去ったことに驚いて、肩をぐるぐると回しながら、すごーい! 痛くないー! とはしゃいでいたら、慌てたレナードにすぐさま取り押さえられてしまった。
「えー、でも本当に全然痛くないよ?」
「今さっき魔法をかけたばかりだからね。痛くなくて当然だよ。けれど魔法の効力が切れたら、また痛み出すだろうし、二週間は安静にする必要があるくらいの怪我を負っているんだから無理は禁物だよ、美緒。ああ、でも本当に良かった。三日間も目を覚まさないから、みんな心配してたんだ」
「うえええええっ! ……って、私、三日間も寝てたの!?」
「って美緒! 動いちゃダメだって何度も言ってるだろう!」
三日間も眠っていたことを告げられ、驚きのあまり、羽織っていた毛布を跳ねのけて、飛び起きようとしたら、今度という今度こそ、レナードの雷声が、ぴしゃり、と落ちてきた。
滅多と声を荒げないレナードの怒鳴り声に、きゃいん、きゃいん、と尻尾を巻きつつ、目覚めたときにみんなが驚いていた理由も、原因不明の謎の体調不良に見舞われた理由も、やたらと咽喉が渇いていた理由も、何もかもすべてが『三日間も眠っていたから』というのが原因だったことが判明し、ほうっ、と胸を撫で下ろす。
あまりにも体調が悪かったから、変な病気にでも罹ったのではなかろうかと、少し心配になっていたのだが、どうやら取り越し苦労だったようだ。
いやはやしかし三日間も眠り続けてたら、そりゃあ、身体が鈍って気怠く感じるのも当然だよねえ、と一人納得していたら、人間の三大欲求の一つである「食欲」が、猛烈な勢いで脳内に欲求を送りつけてきた。
きゅるるるるるるるるるる、と、それはそれはとんでもなく、派手に腹の虫が鳴き出したのである。
飲まず食わずで三日間も眠り続けていたのだから、腹が減るのも当然であろう、と、くうくうとうるさく鳴く腹を擦って宥めていたら、私とレナードのやり取りを黙って見ていたジオルドが、くっ、と咽喉を小さく震わせたかと思えば、あーっはっはっはっ、と声を立てて豪快に笑いだす。
「……って、なんでそこで笑うのよ! 三日間、何も食べてないんだから、お腹が鳴ってもしょうがないでしょう!」
「確かにまあそうなんだけどさあー、美緒ちゃんくらいの年頃の女の子が、何の恥じらいもなく、他人の前で、そこまで豪快に腹の虫を鳴かせられるとか、普通ならありえないだろ、って思ったら、何だか可笑しくてさあ。いやまあ、そういう気取らないところが、美緒ちゃんの良いところなんだろうけど……って、おい、こら! 暴れるなって!」
笑い過ぎて滲み出た涙を指の腹で拭いつつ、悪びれた風でもなく、失礼な発言を噛ましたジオルドに、むうっ、として、手元にあった枕を引っ掴んで、ビシバシとその胸元をぶん殴っていたら、ゴゴゴゴゴ……という効果音が聞こえてきそうなくらい、静かなる怒りに打ち震えたレナードが、表情筋を強張らせながら、歪に笑う。
「ジオルド副師団長が笑いたくなる気持ちは察しますが、絶対安静が必要な病人に、むやみに刺激を与えるような言動は慎んで頂かないと困るのですが――それから美緒。君も全く懲りていないようだね? もし今度、言いつけを破って、少しでも動いたら、次はベッドに括りつけてでも安静にしてもらうよ?」
恐ろしいまでに引き攣ったその笑みに、ぴきり、と凍りつく。
言いつけをちゃんと守って、もう二度と動きませんから、お助けをばー! と心の中で土下座しつつ、命乞いをしていたら、短く刈り上げた銀色の髪を掻き上げながら、しょうがねえなあ、と呟くと、ジオルドは傍らにいたシャルロットの目線に合わせるよう、膝を折って、屈みこむ。
急にどうしたんだ? とジオルドの動向を窺っていたら、トラウザーズのポケットに手を突っ込むと、ジオルドは中から何かを取り出すと、それをシャルロットの目の前に差し出した。
「ジオルドお兄ちゃん、これはなあに?」
「これはシャルロットが大好きなチョコレートだよ」
「んーと……シャルロットがもらってもいいの?」
「ああ、もちろんさ。これはシャルロットへの贈り物だ」
「わああああああい! ジオルドお兄ちゃん、ありがとうー!」
可愛らしい絵柄の紙に包まれたチョコレートをジオルドから受け取り、屈託のない笑みを満面に咲かせると、シャルロットはドレスのポケットの中に、大切そうにチョコレートを仕舞い込む。
「ところでシャルロットに手伝って欲しいことがあるんだ。聞いてくれるかなあ?」
「お手伝いって、なあに?」
「シャルロットでもできる、とっても簡単なお手伝いだよ。美緒お姉ちゃんが、お腹を空かせているから、温かいスープも一緒に持って来て欲しいって、マルティーヌお婆ちゃんに頼んできて欲しいんだ。お願いできるかな?」
「うん、わかったー! シャルロット、おばあちゃまに伝えてくるね!」
どうやら私の空腹を満たすために、温かいスープを注文してくれたようだ。
ジオルドのその気遣いはとてもありがたいのだが、それならばシャルロットに頼まずとも、自分で行けばいいじゃないかー、と思う私に反して、邪な考えなど一切持たないシャルロットは、チョコレートをもらったお礼とばかり、可憐な色合いのドレスの裾を翻すと、マルティーヌさんがいる奥の部屋へと一目散に駆けてゆく。
素直に言うことを聞いてえらいなあ、とシャルロットの健気さに感嘆しつつ、確認しなければいけないことが、たくさんあったことを思い出し、私は、ここぞとばかり、本題を切り出すことにした。
「ねえ、ねえ。それはそうと、どうして目が覚めたら、ハイゼンティアにいるわけなの?」
「え!? えーっと、それはだなあ……って、おい、レナード」
「ああ、うん……そうだねえ……」
三日間という長い眠りから醒めて、一番最初に疑問に感じたことを聞いただけなのだが、受け答えが、ぎくしゃくとしていて、何だか二人とも様子がおかしい。
奥歯に物が挟まったかのような物言いだけでなく、妙にそわそわとしていて落ち着きがないし、さっきから視線だって合わせようとはしてくれない。
釈然としない二人の態度にやきもきしつつ、今さらながら、アレクの姿が見当たらないことに、違和感を覚えるのと同時に、ディハルトから襲撃を受けた際、猛毒を塗りつけた刃で、アレクが斬りつけられたことを思い出して、急激に不安な気持ちに陥ってしまった。
「ねえっ、アレクは!? アレクは無事なの!?」
頭を過った最悪な結末に泣き出しそうになりながら、ものの五分と経たないうちから、レナードの言いつけを破って、毛布を蹴散らして飛び起きると、私は傍にいたレナードの腕を縋るように掴んでいた。
「――……美緒、」
「レナード、アレク、は?」
「ディハルトから受けた毒に関しては、毒素は完全に抜け切ったから、心配しなくて大丈夫だよ。後遺症が出ることもまずないだろう」
いつの間にか溢れ出していた涙を、指の先で優しく拭いながら、レナードがそんなことを言う。
「解毒……できたんだ。良かった……っ、」
「ただ依然として状況は悪いがな」
アレクが無事だと知って、安堵の息を吐いていたら、今度は難しい表情を浮かべたジオルドが、端的な言葉を挟んできた。
「状況が悪い……って、どういう、こと?」
「ああ、そうだな。一から事細かく説明していたら長くなるから、要件だけを纏めて話そうか。まずはお前がハイゼンティアにいる理由だが、手っ取り早く言えば、アレクからの命令だ」
「アレクの、命令?」
「ああ、そうだ。いいか、美緒。落ち着いて話を聞くんだ。アレクとお前がディハルトから襲撃を受けた翌日の話だ。俺とレナードはアレクに呼び出されて、ありとあらゆる全てのことを打ち明けられた」
「ありとあらゆる全てのこと……って?」
ジオルドが紡ぎ出す言葉の一つ一つを噛み砕くように、端々で発せられる文言の一部を復唱すれば、形よく綺麗に切り揃えられた眉を下げて、ちょっと困ったような表情を浮かべると、ジオルドは黙り込んでしまう。
無意識のうちにオウム返ししてしまったことが、気に食わなかったのだろうか、と戸惑っていたら、何かを吹っ切るかのように、ふう、と小さく息を吐くと、ジオルドは閉ざしていた唇を、ゆるり、と解いた。
「それはつまり――……お前が『月に呼ばれし異端者』であることを、アレクから告げられたんだ」
数秒の沈黙を挟んで、ゆっくりと落ちてきたそれに、心臓が、きゅううううっ、と委縮する。
自分が『月に呼ばれし異端者』であることを、レナードも、ジオルドも、周知していたことを、思いがけない形で知らされ、あまりにも急すぎる展開に、一瞬にして、頭の中が真っ白になってしまう。
さっきまでジオルドの言葉を拾い上げては、オウム返ししていた私が、声を失ったことに気づいて、ジオルドが顔を覗き込む。
「――……美緒、」
自分の名前を呼ぶジオルドの声にも応えられずにいたら、横合いから伸びてきたレナードの大きな手のひらが、かたかたと小さく震える私の手を包み込んだ。
手の甲に伝わった温もりと手のひらの感覚に驚いて、顔を上げれば、夜空に浮かぶ瞬きを閉じ込めたような銀色の瞳と視線がかち合う。
「怖がらないで、美緒。ジオルド副師団長も、俺も、君を糾弾したり、見捨てたり、傷つけるような真似は絶対にしないって約束するから」
敵意がないことを主張するかのように、穏やかな笑みを浮べながら、けれどそれでいて、決して揺らぐことのない強い決意が籠もったレナードのその言葉に、すっかり気が緩んでしまったのか、一度は止まったはずの涙がふたたび溢れ落ちた。