紅き月夜に 永遠の想い~運命に導かれた月夜の出逢い~
今度は私が守る番だから。
「お見苦しいところを見せてしまい、大変申し訳ありませんでした」
他人様の前で、めそめそと泣いて、こうやって謝罪をするのは、これで何回目だろうか。
確かに十歳くらいまでは、他人の前でも、よく泣いていたような気がするが、小学五年生だったか六年生くらいの頃に、他人の前で涙を見せるのは「恥ずかしいこと」なんだって、認識するようになってからは、パパやママの前ですら、泣くことなんて滅多になかったというのに、ここ最近、どうにもこうにも、涙腺がかなり緩くなっているような気がする。
いやまあセラフィリアに来てからというもの、聞くも涙、語るも涙、の波乱万丈な日々を過ごしているから、仕方がないと言えば、それまでなんだけれども。
「そんなに畏まらなくても、全然かまいやしないよ。お前さんもずいぶんと辛い思いをしただろうに。そんなことよりもどうだい? もう一杯、お代わりするかい?」
垂れてきた鼻水を、ずずっ、と啜りつつ、またしても他人様の前で涙する、という失態を犯してしまったことを心の中で嘆いていたら、マルティーヌさんにそんなことを聞かれた。
昨夜の残り物で悪いねえ、と、見た目にも色鮮やかな野菜と鶏肉がたっぷりと入ったスープを、マルティーヌさんが運んできてくれたのは、今から遡ること、おおよそニ十分くらい前の話だ。
まあ、その際に、さめざめと泣く私と鉢合わせてしまい、レナードやジオルドはもちろんのこと、マルティーヌさんまでもを巻き込む結果となってしまったのだが。
丸一日かけて煮出したブイヨンに、黒胡椒と塩、オリーブオイルを加えて、じっくりと煮込んだというスープには、施設内の自家菜園で大切に育てられた、アスパラガスやズッキーニ、ナス、カボチャ、パプリカ、ミニトマトなど、栄養満点の野菜がたくさん入っていて、それだけでも、かなりボリュームがあるのだが、それらにプラスして、一口大にぶつ切りされた鶏肉までもが、ごろごろと大量に入っていたので、一皿も食べれば、十分に満足を得られる量ではあったのだけれど、如何せん、三日間も眠りっぱなしで、何も食べていなかったせいか、一皿食べたくらいでは満腹中枢は満たされず。
「ええっと……そうですね。では、お言葉に甘えて、もう一杯、お代わりを頂いてもよろしいでしょうか?」
「遠慮なんていらないよ。気分が沈んだときは、美味しいものをたくさん食べれば、元気にもなるってものさ。すぐに持ってきてあげるから待っておいで」
空になったスープ皿を差し出しつつ、控えめにお願いをすれば、マルティーヌさんは苦笑いを溢しながら、私からお皿を受け取ると、奥の部屋へと入ってゆく。
どうやら奥はキッチンになっているようだ。
少し前まではシャルロットもいたのだが、『私たちと一緒にお人形遊びしましょうよ!』と訪ねてきたお友達たちに誘われ、今は不在だ。
幼いシャルロットが聞いたところで、おそらく理解などできないだろうが、それでも場の雰囲気であったり、表情などから不穏な空気くらいは感じ取れただろうから、これから繰り広げられるであろう、ネガティブな展開のことを考えれば、今、この場にシャルロットがいないのは、こちらにとっても都合が良かったように思う。
淡い色合いのカップに注がれた温かい紅茶を一口含み、あまり気は進まないんだけどなあ、と溜め息を吐きつつ、一時中断していた話の続きを聞かなければ、と思い、口を開こうとして、右手の薬指の付け根で、ちかり、と何かが瞬く。
うん? あれ? 指輪???
と首を傾げつつ、はたり、と動きを止めて数秒後。
「あああああああああああ!!!!」
「何だ何だ何だ!? 今度は何があったんだ!?」
「どうしたの、美緒!? もしかして左肩以外に痛むところがあるの!?」
とんでもなく重大なことを言い忘れていたことに気づいて、素っ頓狂な声を上げて絶叫すれば、傍らで静かに見守っていたジオルドとレナードが素早く身を翻して、二人して顔を覗き込んできた。
「あ、いや、身体が痛いとかではないんだけれど、すっごく重要なことを、今、思い出したの! あのね、私、『月に呼ばれし異端者』じゃなくて『月に呼ばれし解放者』だったんだって!」
「は?」
「え?」
レナードとジオルドの顔を交互に見返しつつ、異端者ではなく、解放者であったことを声高に告げたものの、突然、降って湧いてきた話に、二人とも思考回路が追いついていないようだ。
頭上に巨大な?マークを浮かべて首を傾げる二人に、これを見て! と右手の薬指に、ぴたり、と嵌り込んだ指輪を見せつつ、夢の中で出会ったアルトゥールのことや、交わした会話のことなどを、洗いざらい話してみたものの。
「月を守護する神様ねえ。ってか夢でも見てたんじゃあないのか……って、いや、そうか。夢の中での話だったか。ああ、ややこしいなあ。何だか頭が痛くなってきたぞ」
「うーん、でもそれって結局のところ、美緒が見た夢の話だよね? ということは現実の話ではないってことだよねえ???」
騎士を生業としているジオルドはともかくとして、神様に近い立場であろう、神官職に就くレナードですら、私が話したことをまともには受け入れようとはせず、あろうことか、二人して胡散臭そうに眉を顰め、何なら気が触れたのではなかろうか、とでも言いたげに、猜疑の眼差しを投げつけてきたのである!
「だから夢じゃないんだってば! いや確かに私も混乱したけどさあ! でもアルトゥールからもらった指輪が、こうして実際に残っているんだから、これは夢じゃなくて現実の話なんだってばー! ああ、もう、どう説明すれば分かってくれるのよー!」
「おやまあ、ずいぶんと賑やかだねえ。いったいどうしたんだい?」
猜疑の眼差しをビシバシとぶつけてくる二人に、ぐぬぬぬぬぬ、と歯軋りをしつつ、またしても勃発した『これは夢なのか!? はてまた現実なのか!?』問題に頭を抱えていたら、お代わりのスープが入った器を持って、マルティーヌさんがちょうどタイミングよく戻ってきた。
セラフィリアに措いて、神官職に就く全ての人々が目指すべき最終地点である、ミストリア帝国の大神殿で長年にわたって大司教を務め、更には若かりし頃、『銀の乙女』として崇められていたマルティーヌさんなら、絶対に信じてくれるはず! と一縷の望みを託して、アルトゥールから授かった指輪を見せながら、これまでの事情を話せば、途端にマルティーヌさんの表情が一変した。
「ちょっとごめんよ。その指輪を少し見せておくれ」
持ってきたスープ皿を銀製のトレイに置き、私が差し出した右手を握り締め、薬指の付け根で瞬いている指輪を穴が開くくらい、しげしげと眺めやり、すみれ色の瞳を大きく見開くと、マルティーヌさんは、まあまあまあまあ! と感嘆の声を上げる。
御年73歳のマルティーヌさんが、これほどまでに興奮するなんて珍しいなあ、と、その様子を窺っていたら、落ち着きを取り戻したらしいマルティーヌさんは、私の右手を放すと、おもむろに口を開いた。
「まさかとは思ったけれど、本当に月を守護する月王様の従者とやらに会ったんだねえ」
「……ってマルティーヌお婆さまは、私が話したことを信じてくれるんですか?」
「そんなの当たり前だよ。確かにまあ、夢の中でなんてのは、お伽噺みたいだけれど、ミオが授かったその指輪が、何よりもの証だからねえ」
「この指輪が、ですか?」
「ああ、そうだよ。指輪の環のところに紋様が描かれているだろう?」
信憑性に欠けたお伽噺のような話を、どうしてマルティーヌさんは、すんなりと受け入れてくれたのだろうか、と不思議に思って、その理由を訊ねてみたら、そんなことを言われたので、右手の薬指の付け根で瞬く指輪を、じっくりと見てみれば、確かにマルティーヌさんが指摘した通り、ツタによく似た植物のような文様が、輪っかの表面に描かれている。
一見しただけでは、ただの模様のようにしか見えないが、ひょろっと伸びたツタのような植物の茎にあたる部分を注意深く観察してみれば、文字が描かれているように見えなくもない。
「環のところに使われている文様は、超古代時代に使われていた文字だよ」
「超古代時代の文字って、マルティーヌお婆さまが、恋呪いをするときに使っていたオラクルカードにも、確か描かれていましたよね?」
「ああ、そうだよ。よく覚えていたねえ。オラクルカードに使われている文字とは、少し様式が異なるけれど、ざっくりと大まかに解読した感じでは、指輪の持ち主――……要するに『解放者』の旅が無事に終わるよう、祈りを込めて彫られた文様のようだね。
環に描かれた紋様だけでも、信憑性はかなり高いけれど、それとは別にもう一つ、この指輪が月王様からの賜りものであることを、証明するものがあるんだ」
「それは何なのですか?」
「指輪の台座に嵌められたその宝石――……それこそが月王様からの賜りものだという確たる証拠だよ」
凛と響いたマルティーヌさんの声に、薬指の付け根で瞬く石へと視線を落とす。
夜空に浮かぶお月様を連想させる淡い黄色を帯びているが、光の当たり具合によっては、その色彩を様々な色へと変化させ、時には深い碧、時には鮮やかなオレンジを放ち、その彩りの豊かさは雨上がりの空にかかる虹のようだ。
不思議な色彩を放つ楕円形の石を、しげしげと眺めやっていたら、マルティーヌさんは先に続く言葉を、ゆっくりとした口調で紡ぎ始めた。
「その宝石は月虹輝石と呼ばれるとても珍しい石でね。数百年に一度の確率で、月から流れ落ちてくると、伝承されているものなんだよ。ミストリア帝国の大神殿の宝物庫にも、月虹輝石とされる石が、大切に保管されていてね。一度だけ実物を見たことがあるけれど、聞いた話によれば、今から150年ほど前に砂漠地帯に落ちたものだって言ってたねえ。
まあ、あくまで言い伝えに過ぎないから、憶測でしか言えないけれど、環に描かれた紋様と照らし合わせてみても、ミオの言っていることが真実だと考えた方が、辻褄が合うってものなんだよ。
それにしても、そこで、ぼうっ、と突っ立っている男連中たちは情けないもんだねえ。特にレナード。お前さんは神に寄り添う身でありながら、どうしてミオの話を信じてやらなかったんだい? 私はそんな不出来な弟子を育てた覚えはないよ」
アルトゥールから受け取った指輪についての見解を一通り話し終え、ふう、と息を吐くと、マルティーヌさんはすみれ色の瞳を細め、レナードとジオルドを、じろり、と見据えて、辛辣な言葉を投げつける。
「あ、いや、別に信じなかったわけではないんだけれど――……うん、そうだね。ごめん、美緒」
「俺も疑ったりして悪かったな。美緒」
筋が通ったマルティーヌさんの説得力ある見解は、レナードやジオルドの心をも動かしたらしい。
ついさっきまで、頭のネジが何本かぶっ飛んだんじゃね? 的な眼差しで、私を見ていた二人が、手のひらを返したみたく、ころりと態度を変えて謝ってくる。
私があれだけ必死になって説明をしても、全然信じてくれなかったのにー! とちょっとばかり腹が立ったが、『これは夢なのか!? はてまた現実なのか!?』問題に関しては、当事者である私自身も、非常に難儀な思いをしたのは確かだし、二人とも心の底から反省しているようなので、今日のところはマルティーヌさんに免じて許してやろうではないか。
仏様のような優しい御心を持った私に感謝するが良いよ、と心の中で踏ん反り返っていたら、顎に伸びる無精髭を撫でていたジオルドが、何かを閃いたみたく、ぱちり、と指を鳴らして、ああ、そうか! と嬉々とした声を出す。
「美緒の言っていることが真実だとしたら、形勢逆転の可能性も、あり得なくはないぞ!」
「形勢逆転って、いったい何の話なの? そう言えば、状況が悪いって言ってたよね? ねえ、今、アレクはどこで何をしているの?」
宙ぶらりんのまま、中断していた話を引き合いに出せば、ジオルドは、ああ、その話な、とぼやいて、短く刈り上げた銀色の髪を、かしかし、と引っ掻く。
ひどく気乗りしなさげそうな様子で、しばらくの間、うーん、と唸り声を上げて思い悩んでいたけれど、どうやら観念したようだ。
「要するにだ。陛下からの命に背いて、『月に呼ばれし異端者』である、お前を隠匿したばかりか、逃亡までさせたとして罪に問われて、身柄を拘束されているらしい。ちなみに俺とレナードも逃亡に加担したとかで、賞金首として行方を追われているらしいがな」
「って何それ! じゃあ、アレクは今、腐敗臭漂う薄暗い地下牢にぶち込まれてるってこと!?」
「腐敗臭漂う……って、さすがにそこまで劣悪な環境ではないと思うが、まあそうだな。お前が今言ったことは概ね正しい。二日前にクロフォードが寄越してきた書簡によれば、かなり手厳しい拷問を受けているようだしな。まあ、アレクのことだから、ちょっとやそっとのことで、弱音を吐いたりはしないだろうけれど……って美緒! そんな悲壮な表情をするな! アレクなら大丈夫だから!」
「そんな暢気なことを言ってる場合じゃないでしょう! 早くアレクを助けに行かなきゃ! 今すぐ私をアリルアへ連れて行って!」
「今すぐってそんな無茶なことを言われてもなあ……」
「そうだよ、美緒。君は二週間の安静を必要とするくらいの怪我を負っているんだ。そんな身体でアリルアに戻るなんて無理だよ」
『月に呼ばれし異端者』であった自分を庇ったせいで、身柄を拘束されたばかりでなく、熾烈な拷問までも受けているなんて話を聞かされて、いてもたってもいられず、ベッドから飛び降りようとして、一足先に行動に出たレナードに、またしても取り押さえられてしまった。
「って、やだっ、離してっ!」
「いいから少し落ち着くんだ! 美緒!」
「落ち着いてなんかいられないわよ! 今すぐにでも助けに行かないと、アレクが死んじゃうかもしれないんだよ!?」
「だからって無理強いはさせられな――……っ、」
強引にベッドに押し戻そうとするレナードから逃れようと、身を捩りながら、激しく抵抗していたら、頭の上の方で、ごいんっ、と鈍い音が響く。
何の音だろう、と思って首を傾げていたら、身体を押さえつけていたレナードの腕の力が、ふっ、と緩んだ。
組み敷くレナードの下から抜け出して、身体を起こせば、マルティーヌさんが片手に金属製の鍋を握り締めて、仁王立ちしているではないか!
何が起きたのか、イマイチ状況は掴めないが、後頭部を押さえて悶絶しているレナードの様子から察するに、強引に事を押し進めようとしたレナードに天誅を与えてくれたようだ。
「以前から気にはなっていたけれど、一つのことに固執しすぎるがあまり、時折り、歯止めが効かなくなって、周りが見えなくなる嫌いがあるようだねえ、お前さんは」
「だからって鍋で思いっきりぶん殴る必要ってあります? 師匠」
「まったく生意気な口を利くんじゃないよ。冷静にならなきゃいけないのは、レナードの方だろうよ」
ぶん殴られた後頭部を擦りながら、レナードが苦言を申し立てれば、マルティーヌさんは、ふんっ、と鼻息荒く、もっともな意見で以て、レナードの苦言をばっさりと切り捨てる。
レナードの後頭部には、大きなたんこぶができていて、かなり痛そうだ。
ちょっぴり気の毒にも思えたが、穢れを知らない純真無垢な女子高生を、無理やりベッドに押しつけたのだ。
致し方ない事情があるにせよ、これが日本で起きたことであれば、即110番通報されて、駆けつけたお巡りさんにしょっ引かれ、駐在所あるいは警察署で事情聴取を受ける羽目になっていただろう。
それくらい重大な過失が、大きなたんこぶ一つだけで済んだのだから、むしろ感謝されても良いくらいだ。
「レナードがミオを心配する気持ちは良く分かるよ。けれど人ひとりの命が係わっているんだ。状況によっては柔軟な対応が求められる場合もあることを忘れちゃいけないよ。それにしてもどうしたもんかねえ――……ああ、そうだ。いいものがあったのを思い出したよ」
口を尖らせて、懇々と説教をしていたかと思えば、マルティーヌさんは、ぽんと手を打つと、ベッドとは反対の方へ移動し、白を基調としたアンティーク風の戸棚のドアを開いて、あれでもないこれでもない、と棚の中を漁り始めた。
戸棚には、大きさも、形も、色も、異なる様々な瓶が、所狭しと並び立てられていて、そのほとんどに何かしらの液体が入っており、瓶の表面には何かを記したラベルが貼りつけられている。
ざっかりと見積もっても、数十本は並んでいそうな、瓶の一つ一つを手に取り、貼りつけられているラベルを一枚一枚丁寧に見ていたマルティーヌさんは、やがて探していたものを見つけたらしい。
「ああ、あった! これだよ、これ!」
嬉しそうに声を上げて、戸棚の中から引っ張り出した瓶を抱え、こちらへと引き返してくると、マルティーヌさんはレモン色の液体が入った瓶を、私の目の前に差し出した。
「ええっと……これは何でしょうか?」
「それは自家菜園で育てた薬草から生成した薬だよ。さっきレナードが治癒魔法を使っただろう? その飲み薬も同じような薬効をもっているんだ。レナードが施した魔法の作用時間は、せいぜいもっても、二~三時間が限界だけれど、この薬は丸一日効果を得られることができる。よほどの無茶をしなければ、薬が効いている間は、普通に行動だってできるだろうねえ。
けれど薬っていうのは、効果が強ければ強いほど、不利な点もあってね。この薬に限って言えば、薬の効用が切れてから、半日の間、激痛に苛まされることになるんだ。いわゆる副反応ってヤツだね。しかも厄介なことに、その副反応に対しては、どんな魔法も、どんな薬も、効き目がないんだ。つまりは半日の間、想像を絶する激痛に、もがき苦しみながら、ただ耐え続けるしかないってことなんだよ」
ゆらゆらと揺れるレモン色の液体を眺めやりつつ、マルティーヌさんの説明に耳を傾けていた私は、ごくり、と生唾を呑み込んだ。
時間をかけて戸棚の中を漁りまくり、わざわざ私のところまで持ってきたのは、もちろん見せびらかすのが目的ではなく、おそらく私に飲ませるためだろう。
でなければ、レモン色の液体について、ここまで詳しく説明する必要はないはずだ。
でもどうして薬なんて持ってきたのだろうか? という愚問は、マルティーヌさんの次の言葉でもって、すぐさま解決することとなった。
「どんなに早く飛べる翼竜を使ったとしても、ハイゼンティアからアリルアまでは、三時間近くはかかるだろうよ。薬の効果は丸一日続くから、移動するだけだったら、そこまで問題はないけれど、お前さんが言っているアレクとやらを救うとなると、話はまた変わってくるってものだよ。
どうやって救出するか、作戦を練らなければならないし、色々と準備をしなければいけないこともあるだろうから、それなりの時間が必要になるだろうねえ。
それらを一日で終わらせるのは、そう簡単なことではないよ。一分だって無駄に時間を費やすことは許されない。
もちろん薬の副反応による危険を回避して、魔法を使うという手もあるけれど、魔法を詠唱するには、魔力以外にも体力だって必要なんだ。どんなに簡単な魔法でも、連続して使用すれば、激しく体力を消耗してしまう。下手をすれば、命取りにもなり兼ねないこともあるんだよ。いくら魔術師免許を持っているとはいえ、魔法を使い続けるのは、とても危険なことだし、師匠である私としても、可愛い愛弟子に、そこまでの無理はさせたくない、ってのが本音でね。
ここまでの話を踏まえても、ミオはアレクを救いたいと思うのかい?」
こちらをまっすぐに見据えながら、魔法を使うことは許さないよ、と暗に示してきたマルティーヌさんの言葉に思わず口を噤んでしまう。
要するにアレクを救い出すために、今すぐにでもアリルアへ戻りたいのであれば、副反応による危険を背負ってでも、マルティーヌさんが見つけてきてくれた薬を飲むのが、絶対条件になるということだ。
一時的な感情に流されて、向こう見ずな発言をしてしまったが、アレクを助け出すというのは、それだけ大きな危険を伴わなければ、成し得ないほどの難しい課題であるということを思い知らされ、きゅううううう、と心臓が委縮してしまう。
果たして自分にそれほどまでの難しい課題を完了させることはできるのだろうか、と考えて、その可能性の低さに、波のように不安が押し寄せ、私は、きゅうっ、と、まぶたを強く閉じた。
アレクを助けたいという気持ちが、ぐらぐらと頼りなく、揺れ動く。
(――……たとえそれが絶対的な存在である国王陛下の命であろうと、何の罪も犯していない人間を斬ることなんてできない)
ぐずぐずと決断できずにいたら、ディハルトから襲撃を受ける直前、『月に呼ばれし異端者』を殺せなかった理由を話したときのアレクの姿が脳裏を掠めた。
(ああ、そうだ。私は何を迷っているのだろう。迷う必要なんて何一つとしてないのに――……)
ざわざわと揺れる心を落ち着けるように深く息を吐いて、閉じていたまぶたをゆっくりと開く。
「『月に呼ばれし異端者』であることを知りながら、アレクは命を懸けて、私のことを守ってくれました。その彼は今ひどく危うい立場にあります。いわれのない罪を着せられ、捕らえられている彼の――……アレクの身の潔白を証明できるのは『月に呼ばれし解放者』である、私にしかできない役目だと思っています。ですからどんな危険を背負ったとしても、アレクを救いたいと思う気持ちは変わりませんし、変える気もありません」
すみれ色の瞳を真っ向から見返しながら、きっぱりと言い切れば、マルティーヌさんは険しさを浮き立たせていたその表情を緩めると、そうかい、と頷く。
「どうやら覚悟はできているようだね。だったら今すぐにでも、アリルアへ戻る準備を始めるよ」
一分だって時間を無駄にはできないんだからね、と、にこやかな笑顔で付け足したマルティーヌさんに、はい、そうですね、と返すと、私はアリルアへ戻る準備に取りかかった。
他人様の前で、めそめそと泣いて、こうやって謝罪をするのは、これで何回目だろうか。
確かに十歳くらいまでは、他人の前でも、よく泣いていたような気がするが、小学五年生だったか六年生くらいの頃に、他人の前で涙を見せるのは「恥ずかしいこと」なんだって、認識するようになってからは、パパやママの前ですら、泣くことなんて滅多になかったというのに、ここ最近、どうにもこうにも、涙腺がかなり緩くなっているような気がする。
いやまあセラフィリアに来てからというもの、聞くも涙、語るも涙、の波乱万丈な日々を過ごしているから、仕方がないと言えば、それまでなんだけれども。
「そんなに畏まらなくても、全然かまいやしないよ。お前さんもずいぶんと辛い思いをしただろうに。そんなことよりもどうだい? もう一杯、お代わりするかい?」
垂れてきた鼻水を、ずずっ、と啜りつつ、またしても他人様の前で涙する、という失態を犯してしまったことを心の中で嘆いていたら、マルティーヌさんにそんなことを聞かれた。
昨夜の残り物で悪いねえ、と、見た目にも色鮮やかな野菜と鶏肉がたっぷりと入ったスープを、マルティーヌさんが運んできてくれたのは、今から遡ること、おおよそニ十分くらい前の話だ。
まあ、その際に、さめざめと泣く私と鉢合わせてしまい、レナードやジオルドはもちろんのこと、マルティーヌさんまでもを巻き込む結果となってしまったのだが。
丸一日かけて煮出したブイヨンに、黒胡椒と塩、オリーブオイルを加えて、じっくりと煮込んだというスープには、施設内の自家菜園で大切に育てられた、アスパラガスやズッキーニ、ナス、カボチャ、パプリカ、ミニトマトなど、栄養満点の野菜がたくさん入っていて、それだけでも、かなりボリュームがあるのだが、それらにプラスして、一口大にぶつ切りされた鶏肉までもが、ごろごろと大量に入っていたので、一皿も食べれば、十分に満足を得られる量ではあったのだけれど、如何せん、三日間も眠りっぱなしで、何も食べていなかったせいか、一皿食べたくらいでは満腹中枢は満たされず。
「ええっと……そうですね。では、お言葉に甘えて、もう一杯、お代わりを頂いてもよろしいでしょうか?」
「遠慮なんていらないよ。気分が沈んだときは、美味しいものをたくさん食べれば、元気にもなるってものさ。すぐに持ってきてあげるから待っておいで」
空になったスープ皿を差し出しつつ、控えめにお願いをすれば、マルティーヌさんは苦笑いを溢しながら、私からお皿を受け取ると、奥の部屋へと入ってゆく。
どうやら奥はキッチンになっているようだ。
少し前まではシャルロットもいたのだが、『私たちと一緒にお人形遊びしましょうよ!』と訪ねてきたお友達たちに誘われ、今は不在だ。
幼いシャルロットが聞いたところで、おそらく理解などできないだろうが、それでも場の雰囲気であったり、表情などから不穏な空気くらいは感じ取れただろうから、これから繰り広げられるであろう、ネガティブな展開のことを考えれば、今、この場にシャルロットがいないのは、こちらにとっても都合が良かったように思う。
淡い色合いのカップに注がれた温かい紅茶を一口含み、あまり気は進まないんだけどなあ、と溜め息を吐きつつ、一時中断していた話の続きを聞かなければ、と思い、口を開こうとして、右手の薬指の付け根で、ちかり、と何かが瞬く。
うん? あれ? 指輪???
と首を傾げつつ、はたり、と動きを止めて数秒後。
「あああああああああああ!!!!」
「何だ何だ何だ!? 今度は何があったんだ!?」
「どうしたの、美緒!? もしかして左肩以外に痛むところがあるの!?」
とんでもなく重大なことを言い忘れていたことに気づいて、素っ頓狂な声を上げて絶叫すれば、傍らで静かに見守っていたジオルドとレナードが素早く身を翻して、二人して顔を覗き込んできた。
「あ、いや、身体が痛いとかではないんだけれど、すっごく重要なことを、今、思い出したの! あのね、私、『月に呼ばれし異端者』じゃなくて『月に呼ばれし解放者』だったんだって!」
「は?」
「え?」
レナードとジオルドの顔を交互に見返しつつ、異端者ではなく、解放者であったことを声高に告げたものの、突然、降って湧いてきた話に、二人とも思考回路が追いついていないようだ。
頭上に巨大な?マークを浮かべて首を傾げる二人に、これを見て! と右手の薬指に、ぴたり、と嵌り込んだ指輪を見せつつ、夢の中で出会ったアルトゥールのことや、交わした会話のことなどを、洗いざらい話してみたものの。
「月を守護する神様ねえ。ってか夢でも見てたんじゃあないのか……って、いや、そうか。夢の中での話だったか。ああ、ややこしいなあ。何だか頭が痛くなってきたぞ」
「うーん、でもそれって結局のところ、美緒が見た夢の話だよね? ということは現実の話ではないってことだよねえ???」
騎士を生業としているジオルドはともかくとして、神様に近い立場であろう、神官職に就くレナードですら、私が話したことをまともには受け入れようとはせず、あろうことか、二人して胡散臭そうに眉を顰め、何なら気が触れたのではなかろうか、とでも言いたげに、猜疑の眼差しを投げつけてきたのである!
「だから夢じゃないんだってば! いや確かに私も混乱したけどさあ! でもアルトゥールからもらった指輪が、こうして実際に残っているんだから、これは夢じゃなくて現実の話なんだってばー! ああ、もう、どう説明すれば分かってくれるのよー!」
「おやまあ、ずいぶんと賑やかだねえ。いったいどうしたんだい?」
猜疑の眼差しをビシバシとぶつけてくる二人に、ぐぬぬぬぬぬ、と歯軋りをしつつ、またしても勃発した『これは夢なのか!? はてまた現実なのか!?』問題に頭を抱えていたら、お代わりのスープが入った器を持って、マルティーヌさんがちょうどタイミングよく戻ってきた。
セラフィリアに措いて、神官職に就く全ての人々が目指すべき最終地点である、ミストリア帝国の大神殿で長年にわたって大司教を務め、更には若かりし頃、『銀の乙女』として崇められていたマルティーヌさんなら、絶対に信じてくれるはず! と一縷の望みを託して、アルトゥールから授かった指輪を見せながら、これまでの事情を話せば、途端にマルティーヌさんの表情が一変した。
「ちょっとごめんよ。その指輪を少し見せておくれ」
持ってきたスープ皿を銀製のトレイに置き、私が差し出した右手を握り締め、薬指の付け根で瞬いている指輪を穴が開くくらい、しげしげと眺めやり、すみれ色の瞳を大きく見開くと、マルティーヌさんは、まあまあまあまあ! と感嘆の声を上げる。
御年73歳のマルティーヌさんが、これほどまでに興奮するなんて珍しいなあ、と、その様子を窺っていたら、落ち着きを取り戻したらしいマルティーヌさんは、私の右手を放すと、おもむろに口を開いた。
「まさかとは思ったけれど、本当に月を守護する月王様の従者とやらに会ったんだねえ」
「……ってマルティーヌお婆さまは、私が話したことを信じてくれるんですか?」
「そんなの当たり前だよ。確かにまあ、夢の中でなんてのは、お伽噺みたいだけれど、ミオが授かったその指輪が、何よりもの証だからねえ」
「この指輪が、ですか?」
「ああ、そうだよ。指輪の環のところに紋様が描かれているだろう?」
信憑性に欠けたお伽噺のような話を、どうしてマルティーヌさんは、すんなりと受け入れてくれたのだろうか、と不思議に思って、その理由を訊ねてみたら、そんなことを言われたので、右手の薬指の付け根で瞬く指輪を、じっくりと見てみれば、確かにマルティーヌさんが指摘した通り、ツタによく似た植物のような文様が、輪っかの表面に描かれている。
一見しただけでは、ただの模様のようにしか見えないが、ひょろっと伸びたツタのような植物の茎にあたる部分を注意深く観察してみれば、文字が描かれているように見えなくもない。
「環のところに使われている文様は、超古代時代に使われていた文字だよ」
「超古代時代の文字って、マルティーヌお婆さまが、恋呪いをするときに使っていたオラクルカードにも、確か描かれていましたよね?」
「ああ、そうだよ。よく覚えていたねえ。オラクルカードに使われている文字とは、少し様式が異なるけれど、ざっくりと大まかに解読した感じでは、指輪の持ち主――……要するに『解放者』の旅が無事に終わるよう、祈りを込めて彫られた文様のようだね。
環に描かれた紋様だけでも、信憑性はかなり高いけれど、それとは別にもう一つ、この指輪が月王様からの賜りものであることを、証明するものがあるんだ」
「それは何なのですか?」
「指輪の台座に嵌められたその宝石――……それこそが月王様からの賜りものだという確たる証拠だよ」
凛と響いたマルティーヌさんの声に、薬指の付け根で瞬く石へと視線を落とす。
夜空に浮かぶお月様を連想させる淡い黄色を帯びているが、光の当たり具合によっては、その色彩を様々な色へと変化させ、時には深い碧、時には鮮やかなオレンジを放ち、その彩りの豊かさは雨上がりの空にかかる虹のようだ。
不思議な色彩を放つ楕円形の石を、しげしげと眺めやっていたら、マルティーヌさんは先に続く言葉を、ゆっくりとした口調で紡ぎ始めた。
「その宝石は月虹輝石と呼ばれるとても珍しい石でね。数百年に一度の確率で、月から流れ落ちてくると、伝承されているものなんだよ。ミストリア帝国の大神殿の宝物庫にも、月虹輝石とされる石が、大切に保管されていてね。一度だけ実物を見たことがあるけれど、聞いた話によれば、今から150年ほど前に砂漠地帯に落ちたものだって言ってたねえ。
まあ、あくまで言い伝えに過ぎないから、憶測でしか言えないけれど、環に描かれた紋様と照らし合わせてみても、ミオの言っていることが真実だと考えた方が、辻褄が合うってものなんだよ。
それにしても、そこで、ぼうっ、と突っ立っている男連中たちは情けないもんだねえ。特にレナード。お前さんは神に寄り添う身でありながら、どうしてミオの話を信じてやらなかったんだい? 私はそんな不出来な弟子を育てた覚えはないよ」
アルトゥールから受け取った指輪についての見解を一通り話し終え、ふう、と息を吐くと、マルティーヌさんはすみれ色の瞳を細め、レナードとジオルドを、じろり、と見据えて、辛辣な言葉を投げつける。
「あ、いや、別に信じなかったわけではないんだけれど――……うん、そうだね。ごめん、美緒」
「俺も疑ったりして悪かったな。美緒」
筋が通ったマルティーヌさんの説得力ある見解は、レナードやジオルドの心をも動かしたらしい。
ついさっきまで、頭のネジが何本かぶっ飛んだんじゃね? 的な眼差しで、私を見ていた二人が、手のひらを返したみたく、ころりと態度を変えて謝ってくる。
私があれだけ必死になって説明をしても、全然信じてくれなかったのにー! とちょっとばかり腹が立ったが、『これは夢なのか!? はてまた現実なのか!?』問題に関しては、当事者である私自身も、非常に難儀な思いをしたのは確かだし、二人とも心の底から反省しているようなので、今日のところはマルティーヌさんに免じて許してやろうではないか。
仏様のような優しい御心を持った私に感謝するが良いよ、と心の中で踏ん反り返っていたら、顎に伸びる無精髭を撫でていたジオルドが、何かを閃いたみたく、ぱちり、と指を鳴らして、ああ、そうか! と嬉々とした声を出す。
「美緒の言っていることが真実だとしたら、形勢逆転の可能性も、あり得なくはないぞ!」
「形勢逆転って、いったい何の話なの? そう言えば、状況が悪いって言ってたよね? ねえ、今、アレクはどこで何をしているの?」
宙ぶらりんのまま、中断していた話を引き合いに出せば、ジオルドは、ああ、その話な、とぼやいて、短く刈り上げた銀色の髪を、かしかし、と引っ掻く。
ひどく気乗りしなさげそうな様子で、しばらくの間、うーん、と唸り声を上げて思い悩んでいたけれど、どうやら観念したようだ。
「要するにだ。陛下からの命に背いて、『月に呼ばれし異端者』である、お前を隠匿したばかりか、逃亡までさせたとして罪に問われて、身柄を拘束されているらしい。ちなみに俺とレナードも逃亡に加担したとかで、賞金首として行方を追われているらしいがな」
「って何それ! じゃあ、アレクは今、腐敗臭漂う薄暗い地下牢にぶち込まれてるってこと!?」
「腐敗臭漂う……って、さすがにそこまで劣悪な環境ではないと思うが、まあそうだな。お前が今言ったことは概ね正しい。二日前にクロフォードが寄越してきた書簡によれば、かなり手厳しい拷問を受けているようだしな。まあ、アレクのことだから、ちょっとやそっとのことで、弱音を吐いたりはしないだろうけれど……って美緒! そんな悲壮な表情をするな! アレクなら大丈夫だから!」
「そんな暢気なことを言ってる場合じゃないでしょう! 早くアレクを助けに行かなきゃ! 今すぐ私をアリルアへ連れて行って!」
「今すぐってそんな無茶なことを言われてもなあ……」
「そうだよ、美緒。君は二週間の安静を必要とするくらいの怪我を負っているんだ。そんな身体でアリルアに戻るなんて無理だよ」
『月に呼ばれし異端者』であった自分を庇ったせいで、身柄を拘束されたばかりでなく、熾烈な拷問までも受けているなんて話を聞かされて、いてもたってもいられず、ベッドから飛び降りようとして、一足先に行動に出たレナードに、またしても取り押さえられてしまった。
「って、やだっ、離してっ!」
「いいから少し落ち着くんだ! 美緒!」
「落ち着いてなんかいられないわよ! 今すぐにでも助けに行かないと、アレクが死んじゃうかもしれないんだよ!?」
「だからって無理強いはさせられな――……っ、」
強引にベッドに押し戻そうとするレナードから逃れようと、身を捩りながら、激しく抵抗していたら、頭の上の方で、ごいんっ、と鈍い音が響く。
何の音だろう、と思って首を傾げていたら、身体を押さえつけていたレナードの腕の力が、ふっ、と緩んだ。
組み敷くレナードの下から抜け出して、身体を起こせば、マルティーヌさんが片手に金属製の鍋を握り締めて、仁王立ちしているではないか!
何が起きたのか、イマイチ状況は掴めないが、後頭部を押さえて悶絶しているレナードの様子から察するに、強引に事を押し進めようとしたレナードに天誅を与えてくれたようだ。
「以前から気にはなっていたけれど、一つのことに固執しすぎるがあまり、時折り、歯止めが効かなくなって、周りが見えなくなる嫌いがあるようだねえ、お前さんは」
「だからって鍋で思いっきりぶん殴る必要ってあります? 師匠」
「まったく生意気な口を利くんじゃないよ。冷静にならなきゃいけないのは、レナードの方だろうよ」
ぶん殴られた後頭部を擦りながら、レナードが苦言を申し立てれば、マルティーヌさんは、ふんっ、と鼻息荒く、もっともな意見で以て、レナードの苦言をばっさりと切り捨てる。
レナードの後頭部には、大きなたんこぶができていて、かなり痛そうだ。
ちょっぴり気の毒にも思えたが、穢れを知らない純真無垢な女子高生を、無理やりベッドに押しつけたのだ。
致し方ない事情があるにせよ、これが日本で起きたことであれば、即110番通報されて、駆けつけたお巡りさんにしょっ引かれ、駐在所あるいは警察署で事情聴取を受ける羽目になっていただろう。
それくらい重大な過失が、大きなたんこぶ一つだけで済んだのだから、むしろ感謝されても良いくらいだ。
「レナードがミオを心配する気持ちは良く分かるよ。けれど人ひとりの命が係わっているんだ。状況によっては柔軟な対応が求められる場合もあることを忘れちゃいけないよ。それにしてもどうしたもんかねえ――……ああ、そうだ。いいものがあったのを思い出したよ」
口を尖らせて、懇々と説教をしていたかと思えば、マルティーヌさんは、ぽんと手を打つと、ベッドとは反対の方へ移動し、白を基調としたアンティーク風の戸棚のドアを開いて、あれでもないこれでもない、と棚の中を漁り始めた。
戸棚には、大きさも、形も、色も、異なる様々な瓶が、所狭しと並び立てられていて、そのほとんどに何かしらの液体が入っており、瓶の表面には何かを記したラベルが貼りつけられている。
ざっかりと見積もっても、数十本は並んでいそうな、瓶の一つ一つを手に取り、貼りつけられているラベルを一枚一枚丁寧に見ていたマルティーヌさんは、やがて探していたものを見つけたらしい。
「ああ、あった! これだよ、これ!」
嬉しそうに声を上げて、戸棚の中から引っ張り出した瓶を抱え、こちらへと引き返してくると、マルティーヌさんはレモン色の液体が入った瓶を、私の目の前に差し出した。
「ええっと……これは何でしょうか?」
「それは自家菜園で育てた薬草から生成した薬だよ。さっきレナードが治癒魔法を使っただろう? その飲み薬も同じような薬効をもっているんだ。レナードが施した魔法の作用時間は、せいぜいもっても、二~三時間が限界だけれど、この薬は丸一日効果を得られることができる。よほどの無茶をしなければ、薬が効いている間は、普通に行動だってできるだろうねえ。
けれど薬っていうのは、効果が強ければ強いほど、不利な点もあってね。この薬に限って言えば、薬の効用が切れてから、半日の間、激痛に苛まされることになるんだ。いわゆる副反応ってヤツだね。しかも厄介なことに、その副反応に対しては、どんな魔法も、どんな薬も、効き目がないんだ。つまりは半日の間、想像を絶する激痛に、もがき苦しみながら、ただ耐え続けるしかないってことなんだよ」
ゆらゆらと揺れるレモン色の液体を眺めやりつつ、マルティーヌさんの説明に耳を傾けていた私は、ごくり、と生唾を呑み込んだ。
時間をかけて戸棚の中を漁りまくり、わざわざ私のところまで持ってきたのは、もちろん見せびらかすのが目的ではなく、おそらく私に飲ませるためだろう。
でなければ、レモン色の液体について、ここまで詳しく説明する必要はないはずだ。
でもどうして薬なんて持ってきたのだろうか? という愚問は、マルティーヌさんの次の言葉でもって、すぐさま解決することとなった。
「どんなに早く飛べる翼竜を使ったとしても、ハイゼンティアからアリルアまでは、三時間近くはかかるだろうよ。薬の効果は丸一日続くから、移動するだけだったら、そこまで問題はないけれど、お前さんが言っているアレクとやらを救うとなると、話はまた変わってくるってものだよ。
どうやって救出するか、作戦を練らなければならないし、色々と準備をしなければいけないこともあるだろうから、それなりの時間が必要になるだろうねえ。
それらを一日で終わらせるのは、そう簡単なことではないよ。一分だって無駄に時間を費やすことは許されない。
もちろん薬の副反応による危険を回避して、魔法を使うという手もあるけれど、魔法を詠唱するには、魔力以外にも体力だって必要なんだ。どんなに簡単な魔法でも、連続して使用すれば、激しく体力を消耗してしまう。下手をすれば、命取りにもなり兼ねないこともあるんだよ。いくら魔術師免許を持っているとはいえ、魔法を使い続けるのは、とても危険なことだし、師匠である私としても、可愛い愛弟子に、そこまでの無理はさせたくない、ってのが本音でね。
ここまでの話を踏まえても、ミオはアレクを救いたいと思うのかい?」
こちらをまっすぐに見据えながら、魔法を使うことは許さないよ、と暗に示してきたマルティーヌさんの言葉に思わず口を噤んでしまう。
要するにアレクを救い出すために、今すぐにでもアリルアへ戻りたいのであれば、副反応による危険を背負ってでも、マルティーヌさんが見つけてきてくれた薬を飲むのが、絶対条件になるということだ。
一時的な感情に流されて、向こう見ずな発言をしてしまったが、アレクを助け出すというのは、それだけ大きな危険を伴わなければ、成し得ないほどの難しい課題であるということを思い知らされ、きゅううううう、と心臓が委縮してしまう。
果たして自分にそれほどまでの難しい課題を完了させることはできるのだろうか、と考えて、その可能性の低さに、波のように不安が押し寄せ、私は、きゅうっ、と、まぶたを強く閉じた。
アレクを助けたいという気持ちが、ぐらぐらと頼りなく、揺れ動く。
(――……たとえそれが絶対的な存在である国王陛下の命であろうと、何の罪も犯していない人間を斬ることなんてできない)
ぐずぐずと決断できずにいたら、ディハルトから襲撃を受ける直前、『月に呼ばれし異端者』を殺せなかった理由を話したときのアレクの姿が脳裏を掠めた。
(ああ、そうだ。私は何を迷っているのだろう。迷う必要なんて何一つとしてないのに――……)
ざわざわと揺れる心を落ち着けるように深く息を吐いて、閉じていたまぶたをゆっくりと開く。
「『月に呼ばれし異端者』であることを知りながら、アレクは命を懸けて、私のことを守ってくれました。その彼は今ひどく危うい立場にあります。いわれのない罪を着せられ、捕らえられている彼の――……アレクの身の潔白を証明できるのは『月に呼ばれし解放者』である、私にしかできない役目だと思っています。ですからどんな危険を背負ったとしても、アレクを救いたいと思う気持ちは変わりませんし、変える気もありません」
すみれ色の瞳を真っ向から見返しながら、きっぱりと言い切れば、マルティーヌさんは険しさを浮き立たせていたその表情を緩めると、そうかい、と頷く。
「どうやら覚悟はできているようだね。だったら今すぐにでも、アリルアへ戻る準備を始めるよ」
一分だって時間を無駄にはできないんだからね、と、にこやかな笑顔で付け足したマルティーヌさんに、はい、そうですね、と返すと、私はアリルアへ戻る準備に取りかかった。