紅き月夜に 永遠の想い~運命に導かれた月夜の出逢い~

追い詰められた少女の選択肢⑦

「――……っ、昨夜の焚火の跡も貴方が仕込んだのね」
「ああ、あれですか。随分とお疲れになられていたご様子でしたので、簡易的なものではありますが用意させて頂いたのですが、お気に召されませんでしたか?」
「いつから後をつけていたの?」
「後をつけていたなど人聞きの悪いような真似をした覚えはありませんが――……私は護衛をしたまでですよ。大切な姫に何か大事でもあれば、それこそ陛下に顔向けできませんからね」

 護衛などとよくもまあ心にもないことを言えたものだ。
 相変わらず軽い口調で白々しい言葉をつらつらと並び立てるユリウスを強く睨みつけながら、自分が投げかけた質問が、いかに愚問であったかを思い知らされ、彼女は奥歯をきつく噛み締めた。

 空白の時間を作り上げたのはユリウス自身だ。
 彼女がおとなしく幽閉生活を受け入れるような性格ではないことを知っていたからこそ、ユリウスもまた彼女と同様、多くの時間を割いて彼女を監視し、何らかの行動を起こすのであれば、自身が作り出した時間帯を狙うであろうと先を読み、彼女が行動に移すその日を、虎視眈々と狙っていたのだろう。
 頭の回転が速く、誰よりも策略家である彼が、離宮から逃げ出した自分をみすみす逃すなんて、絶対にありえないことだと思っていたが、まさかここまで手の込んだ小細工を仕掛けていたとは予想もしなかった。
 こうなってくると身に覚えのない濡れ衣を着せたのも、ガレス渓谷の両端を結ぶ橋を崩落させたのも、全てユリウスが裏で糸引きをしていたのではないかと思えたが、彼がやったと断言できるほどの確固たる証拠がない以上、彼に罪を問うことはできない。

 幽閉されてから三カ月近くもの時間を費やして様々な情報を集め、持てるだけの知識と知恵を絞って綿密に計画を練り、慎重に慎重を重ねて行動に移したはずだったのに、いざ蓋を開けてみたら、その全てはユリウスの掌で転がされていただけ、という耐えがたい事実を突きつけられ、激昂すらできないほどの虚無感に襲われる。
 けれどもユリウスはそんな彼女に慈悲をくれてやるほどの懐の深さなど持ち合わせていない。
 膝から崩れ落ちたくなるほどの絶望に打ちひしがれ、唇をきつく噛み締め、声もなく、小さく肩を戦慄かせている彼女に憐憫の眼差しこそ向けたものの、彼女を追い詰める行為そのものを止める気は更々ないらしく、ユリウスはさらなる追い打ちを仕掛けにかかった。

「本題はこれからですよ、姫」
「本……題?」
「ええ、そうです」

 魂が抜け落ちたかのように、ユリウスが口にした単語を力なく反芻した彼女を見遣り、くつり、と面白そうに喉を鳴らしながら、ユリウスは浅く頷く。
 完膚なきまでも精神的に追い詰められているというのに、これ以上、何を言い出すのだろうか、とそんなことを思ったが、それを声に出して言い返す気力すら湧かない。
 何の感情も灯さない虚ろな瞳で、どこを見ているのかさえ分からないほど、危うげな彼女を横目で流し見つつ、ユリウスは薄い唇を開くと、先に続く言葉を滔々と紡ぎ始めた。

「幽閉の身でありながら亡命を謀るなど、どれほど罪深きことでしょうか。この事が陛下の耳にお触れでもすれば、ヴェルヘイヌ国の第一王女と言えど、それ相当の断罪は免れないはず――……ですが幸いなことに昨夜の件に関して真相を知り得る者はごく僅か。私が火消しに回れば揉み消すことも可能でしょう。もちろん、こちらの条件を飲んで頂く必要はありますが、ね」

 これまで奥歯に物が挟まったような物言いしかしてこなかったユリウスが、突然、直接的な単語を紡ぎ出したことに驚いたのか、感情を失っていた翡翠色の瞳が、ぴくり、と反応を示して、小さく揺れる。
 だが彼女が吃驚したのは、彼の言い方が変わったことにではなく、彼が口にした内容そのものについてだった。
 自分が亡命を謀ったことは紛れもない事実だが、仮にも王女である自分に対して、悪びれる様子もなく、条件を受け入れることを引き換えに、隠蔽工作をやって退けようではないか、と話を持ちかけてくるなど、言語道断も甚だしいことだ。

「言葉を慎みなさい、ユリウス。貴方の愚かな考えに乗じるつもりは一切ありません」

 ユリウスの取ったその愚行は消えかけていた王女としての矜持に炎を灯したらしい。
 翡翠色の切れ長の瞳をまっすぐに向け、王女たる毅然とした態度で、彼が持ちかけた話を一刀両断するなり、ユリウスはその表情を一変させた。甚振られてすっかり弱り切っていた窮鼠が、反撃に転じるなど思ってもみなかったのだろう。
 ユリウスの黒く澱んだ瞳にあからさまな苛立ちが滲む。

「さすがは聡明な王女様であられる。では亡命を謀ったことを認め、然るべき断罪を受け入れられるというのですね?」
「亡命を謀ったことは認めましょう。けれど私は甘んじて断罪を受け入れるつもりもありません」

 どす黒い本性を露わにしたユリウスに激しく睨みつけられ、心臓が委縮するほどの恐ろしさを覚えたが、それでも彼女が怯むことはなかった。
 ユリウスの問いかけに凛然とした声で答えると、彼女は後ろへと一歩、ゆっくりと歩を下げた。
 濡れた靴底に引っかかった小石が、からからと乾いた音を立てて、奈落の底へと吸い込まれてゆく。
 彼女の靴底は辛うじて地面を捉えているが、あと半歩も下がれば、その身体は間違いなく、底の見えない深い渓へと落ちてしまうだろう。

 彼女は思い出していた。
 何としてもやり遂げると決めたあの日から、ずっと胸に秘めてきた揺るがない強い誓いを。


(あの男に――……あの魔術師の手にロザリオが渡るようなことだけは絶対にさせないわ)


 握り締めていた剣の柄から手を離す。
 からん、と音を立てて、足元に転がった片手剣を見つめながら、様々な宝石で彩られたロザリオを胸元に引き寄せると、彼女は辛うじて捉えていた地面から、さらに足を半歩後ろへと下げた。
 ふわり、と宙に浮いた彼女の華奢な身体を谷底から吹き上げた風が掻っ攫ってゆく。

「――……っ、姫!」

 異変に気づいたユリウスが崖の縁に駆け寄り、深い渓の底へ向かって落ちてゆく彼女の身体を掴もうと腕を伸ばす。けれども伸ばしたユリウスの腕が彼女に届くことはなかった。

(まさか自ら谷へ落ちる道を選ぶとは――……)

 徐々に小さくなってゆく彼女の姿を苦々しい表情で見下ろしていたユリウスは、だが次の瞬間、己の眼が捉えたその信じがたい光景に息を呑んだ。

「……何だ、あれは、」

 ユリウスの薄い唇から乾いた声が漏れる。

 奈落の底へと落ちてゆく彼女の身体を、無数の淡い光が柔らかく包み込むその光景を、ユリウスただ一人だけが呆然と見下ろしていた。

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