紅き月夜に 永遠の想い~運命に導かれた月夜の出逢い~
一章 これが異世界での私の役目。
桜、舞い散る①
――……美緒……
ああ……またあの声。
――……美緒……
ねえ、貴方は誰なの?
――……美緒……
どうして貴方はいつも私を呼んでいるの?
――……美緒……
どうして貴方はいつもそんな悲しそうな声で呼ぶの?
ねえ、答えてよ――――……
***
「美緒ッ! いつまで寝ている気なのッ! いい加減、起きなさいッ!」
耳元で響く聞き慣れたママの怒鳴り声。
四月――……とは言っても、まだまだ肌寒い季節。
暖かい布団からすぐには抜け出せず、布団に包まったまま、のそり、と腕を伸ばすと、私はベッドサイドの時計を手繰り寄せた。
寝ぼけ眼を擦りながら、時計を覗き込んでみると、時刻は間もなく、七時半を指そうとしている。
「ええっ、うそッ!? もうこんな時間っ!?」
かちこちと無機質な音を立てて動く針が指し示す時間に驚いて飛び起きると、私は洋服タンスにかけていた制服を引っ掴んだ。
「っていうか、なんでもう少し早く起こしに来てくれなかったの!?」
「美緒! ママに責任転嫁してないで少しは反省なさい! 今日から新学期が始まるから、ちゃんと準備して寝なさいって、昨夜、さんざん念押ししたでしょう?」
着慣れた制服に手早く着替え、全身を映せる鏡の前に立って、カッターシャツの襟元にリボンを結びつけながら、恨み言を漏らすなり、ぴしゃり、とママの鋭い雷声が落ちてきた。
「だからちゃんと目覚まし合わせて寝たんだってば! でもアラーム音なんて一度も鳴らなかったわよ! その時計、壊れてるんじゃないの!?」
「って昨日まで鳴っていた時計がそんなに都合良く壊れるわけないでしょ! 美緒のことだからアラームを止めて二度寝でもしたんでしょ! 朝起きられないのなら、夜更かしばかりしてないで早く寝なさいって、何度も言ってるじゃない!」
身の潔白を訴えるべく、反論の異を唱えたものの、即座に返ってきた身も蓋もない言葉に、私は、うっ、と声を詰まらせた。
そんなことないもん! と声を大にして言い返したいところだが、身に覚えがあり過ぎて、ぐうの音も出ない。
本格的なお説教モードに突入したママを鏡越しに見やりつつ、くそう、いらぬ反論なぞしなければよかったと後悔するも時すでに遅し。
あっちへこっちへ自由気ままに跳ねる髪を梳きながら、完全にスイッチが入ってしまったママをどう対処すべきか、頭を悩ませていたら、ぴんぽーん、と来客を知らせる軽快なチャイムの音が鳴り響いた。
ばたばたと忙しいこの時間帯に家を訪ねてくる人間なんて一人しかいない。
「美緒、花菜ちゃんが来ているぞ。早く支度を済ませて下りて来なさい」
これ以上ない絶妙なタイミングで鳴ったチャイムの音に、ぐっじょぶ! と心の中で親指を突き立てて、ほくそ笑んでいたら、それとなくパパが助け舟を出してくれた。
「ママ、ごめんね。花菜ちゃんが迎えにきてくれたみたい。そろそろ行かなきゃ。お説教は帰ってきてから、ゆっくり聞くから!」
まだまだ全然言い足りなさそうにしているママに両手を合わせて謝りつつ、無造作に転がっていた鞄を引っ掴み、脱兎のごとく部屋から抜け出す。
ばたばたと慌ただしく階段を駆け下りれば、開け放たれたドアの向こうから、香ばしいコーヒーの香りが漂ってきた。
ドアの隙間からひょこりと顔を出して中を覗き込めば、ソファーに腰を下ろしたパパが淹れ立てのコーヒーを啜りながら、熱心な面持ちで新聞の記事に視線を落としている。
邪魔しちゃあ悪いかな、と思いつつ、おはよう、と声をかければ、新聞を読んでいたパパの視線がこちらを向いた。
「おはよう、美緒」
「パパ、助け舟を出してくれてありがとう」
「ああ、いつものことだから構わないよ。でもママの言うことも尤もだし、もう少し早く起きられるよう、美緒も心がけなきゃダメだぞ――……っと、もうこんな時間か。早く行かないと遅刻するぞ」
小さく苦笑いを浮かべながら、穏やかな口調で窘めていたパパが、壁に掛けていた時計へと目を向ける。パパの視線を追って時計を見てみれば、時計の針は午前八時をとっくに過ぎていた。
全速力で走らなきゃ間に合わないっていうほど切迫はしていないけれど、のんびりと話している余裕はない。
「わっ、ホントだ! 行ってくるね!」
「ああ、気をつけて行っておいで」
「うん、パパも仕事頑張ってね!」
二言、三言、言葉を交わして、手短に会話を終わらせ、ダイニングテーブルに並ぶお皿からサンドウィッチを一切れ取り、一口で食べるには少々大きすぎるそれにぱくりと齧りつき、リビングを飛び出す。
玄関先でスリッパを脱ぎ棄て、買ったばかりの真新しいローファーに足を突っ込みながら、シューズボックスに備えつけてある鏡の前に立ち、もう一度、身だしなみをチェックすると、私は口いっぱいに頬張ったサンドウィッチを咽喉の奥に押し込み、玄関のドアを勢いよく開いた。
やわらかな春風が胸元のリボンを、ふわり、と揺らしながら擦り抜けてゆく。
何となしに頭上を見上げてみれば、ペンキをひっくり返したみたいな青空が、どこまでも広がっていた。
ぐずついて一日中はっきりとしなかった昨日と違って、今日はこれ以上ないくらいの快晴だ。
「おはよー、美緒!」
時間に追われていることを忘れ、空を流れゆく雲を眺めていたら、呼ぶ声に意識を引き戻された。ああ、そうだった。ぼけっと突っ立ってる場合じゃなかったと声がした方へ目を向ければ、門扉の向こうで花菜ちゃんが片手を振って手招きしている。
「おはよー! 待たせてごめんね、花菜ちゃん」
「いつものことだから全然気にしてないわよ。それに今日はまだ早い方だしねー」
花菜ちゃんの元に駆け寄り、両手を合わせて謝れば、ちらっ、と腕時計に視線を落とした花菜ちゃんが、ふふっ、と小さく笑って、茶目っ気たっぷり、ぱちりっ、と可愛くウィンクしてみせる。女の子らしいその仕種は男子なら一瞬で落ちてしまいそうだ。
実際、花菜ちゃんは男子からの受けがすごくいい。
お人形さんみたいな愛らしい外見と、ふんわりとした柔らかい雰囲気が、万人受けしているようで、他校の男子から告白されているのを何度も目撃しているし、私が知っている限りでは両手とまではいかずとも、片手では足りないくらいには異性と付き合っているはずだ。
まあ、そのどれもが一か月と続かず、大した進展もないまま、終わっているのだが、その要因は花菜ちゃんの見た目と内面のギャップの差が、ナイアガラの滝の落差ほどもあるからなのだと確信している。
いや別に救いようがないくらい根性がひん曲がっている超絶極悪ドSキャラってわけでもなければ、地球は私のために回っているのよ! 愚民ども、私に傅きなさい! 的な発言を平然とかます超自己チュー女王様キャラってわけでもないのだけれど、如何せん、虫一匹すらも殺さぬような可愛らしい顔をしているくせに、その口から繰り出される言葉は実に刺々しく、彼女の吐き出す毒に侵され、無残に散っていった犠牲者は数知れず。
しかも笑顔で以って止めを刺してくるのだから、性質が悪いったらありゃしない。
かくいう私も数多くいる犠牲者の一人だ。
――……とまあそんな感じの花菜ちゃんだけど、もちろん、ただ口が悪いだけの毒舌キャラってわけではない。
たとえば占いなんてあんなのただの気休めよ! と言いつつも、その日の占いの結果がいまいち芳しくないときは、ラッキーアイテムをこっそり鞄の中に忍ばせてみたり、たとえば胸キュン要素がたっぷり詰まった乙女向け恋愛小説を読んでは、私もこんな風に甘いセリフを囁かれてみたいー! と目をきらきら輝かせてみたり―――……と乙女チックな一面も持ち合わせているのだ。
それに女子力だって花菜ちゃんの方が断然高い。
寝癖のついた髪を軽く梳いて整えただけの私と違って、花菜ちゃんはふわふわの柔らかな髪を綺麗にブロウしているし、校則に引っかからない範囲でメイクだってばっちりしている。学校指定の制服だって、アレンジを加えた着こなしで、同じものを着ているとは思えないくらいおしゃれだ。
もちろん、私だって全くの無頓着ってわけではないけれど、朝早く起きておしゃれに時間をかけるなら、一分でも長く寝ていたい、と思うのが正直なところだ。
「ああっ、そうだ! 忘れてた!」
通学路の途中にある昔ながらのレトロな雰囲気が漂う商店街を抜け、あと五分も歩けば、学校にたどり着くってタイミングで、突然、大きな声を上げたかと思えば、花菜ちゃんが急に立ち止まる。
いきなりどうしたんだろうと思って首を傾げていたら、花菜ちゃんは制服のポケットの中から何かを取り出すと、片手にちょうど納まるくらいの大きさのそれを目の前に掲げてみせた。