紅き月夜に 永遠の想い~運命に導かれた月夜の出逢い~
どうやらラスボス(?)が登場したようです②
「飛んで火にいる夏の虫とは、よく言うものだけれど、こうもたやすく、こちらが仕掛けた策略に嵌まってくれるとはねえ。君たちはバカなのかい?」
不意に飛んできた揶揄を含んだ声に驚いて、後ろを振り返れば、ほんの少し離れた場所に、壁に寄りかかるよう、誰かが立っている。
ゆらゆらと揺れる、ろうそくの灯りを頼りに、目を凝らしてみれば、ちょっと神経質そうな面持ちをした美形が、そこにいた。
遠目から見ても、それなりの美形だと分かるその彼は、けれども、どこかで見たことがある顔だ。
(あれ? どこで見たんだっけ?)
窓から差し込む月明かりに照らされて、全身を薄っすらと紅に染めている美形を見つめつつ、脳内に蓄積されている記憶を、あれこれと引き出していた私は、探していた記憶を見つけ出し、ああっ! と小さな声を上げた。
それは今から四日前、図書館司書のシルヴィアナさんから、お使いを頼まれたときのことだ。
アレクに届けて欲しい本があると頼まれ、騎士団寄宿舎へと向かう途中、通りがかった建屋の前で、何やらアレクと話していたのが彼だったはず! えーっと、名前は何だったっけな。確か、ヴィなんちゃらかんちゃら、だったような気がするんだけどー、と引き当てた記憶を回顧していたら、細いフレームの眼鏡の奥で瞬く、青みがかった淡い緑色の双眸と目が合ってしまった。
途端、半開きだった美形の薄い唇が、くっ、と歪む。
それが美形には似つかわしくない、薄気味悪い嘲笑であることに気づくのと、ほぼ同時に、ヴィなんちゃらかんちゃらが、ぱちり、と指を弾いた。
と次の瞬間、それを合図と捉えたかのごとく、左右に分かれた丁字路の両側から、武器を手にした警備兵たちが、どやどやと一斉に姿を現す。
その数、ざっと見ただけでも、十人以上はいそうだ。
さっき、ヴィなんちゃらかんちゃらが、策略がどうのこうのと言っていたから、おそらく、これまで通過した部屋のどこかに身を潜めていて、絶好のチャンスが訪れるその瞬間を、今か今かと待ち構えていたのだろう。
「ヴィクトール卿相殿、如何、致しましょうか?」
後ろに控えていた警備兵の一人が、美形の名前を口にする。
あー! そうだ! ヴィクトールだ! ヴィクトール! 確かアレクも彼の事をそう呼んでいたはずだ。
なかなか出てこなかった美形の彼こと、ヴィクトール卿相の名前を思い出して、すっきり晴れ晴れとしていたら、ヴィクトール卿相は、そうだなあ、と呟くと、寄りかかっていた壁から身体を起こし、私たちの方へ向き合う。
武器を構えた大勢の兵を引き連れ、不敵な笑みを湛えて、こちらを見据える、その佇まいは、正しく、ゲームに登場するラスボスそのものだ。
いよいよこれを使う時がきたか、とフライパンを構えつつ、気迫負けしないようにと、ヴィクトール卿相を睨みつけていたら、彼は上がっていた口角を、さらに上へと引き上げた。
せっかくの美形が台無しになるほど、彼の表情が醜く歪む。
「君たちがおとなしく降伏すると言うのなら、今ここで危害を加えるような、下賎な真似はしないと約束するよ」
「美緒! あいつの言葉に惑わされてはダメだ! ここはどうにかして、俺が食い止めるから、美緒は陛下の部屋へ向かうんだ!」
ヴィクトール卿相が口にした胡散臭い言い回しに、眉をひそめて訝しんでいたら、先に動いたレナードが、ぶん殴るには最適そうな柄の長いハンマー――ここに来るまでの道すがら、たまたま見つけた武器庫で確保していた――を構えながら、私の前へと躍り出る。
最後の砦になるから、と言っていた、その言葉を実行に移したレナードに対して、申し訳ない気持ちで胸がいっぱいになったけれど、もうここまで来たら、全力で敵を振り切って、陛下に会うしかない、と覚悟を決め、真後ろに控える豪奢な造りの扉に向かって駆けようとして、ひゅっ、と空気を切り裂きながら、何かが頬を掠めて通り過ぎた。
え!? なになになになになに!? 今のはなにー!? と思いつつ、自分の足元を、そうろり、と見てみれば、つま先から数cmと離れないところに、鋭い矛先を持つ槍が、ぐっさりと突き刺さっているではないか!
もうちょっとでも足を前に進めていれば、自分の足に突き刺さっていたかもしれないと思うと、ぞわり、と背筋に冷たいものが走る。
「忠告したはずだよね? おとなしく降伏すれば危害は加えないと。その忠告を破ったのだから、然るべき対処を取らせてもらったまでだよ。君の足を貫通しなかっただけでも、ありがたいと思ってもらわないとね」
いきなり槍を投げつけるなんて危ないじゃないか! と抗議の意も込めて、悠然と構えるヴィクトール卿相を振り仰いで、思いっきり睨みつけてやれば、そんな言葉で以って返されてしまい、うぐっ、と声を詰まらせる。
口調こそ丁寧ではあるものの、ヴィクトール卿相が口にした内容は、かなり物騒なものだ。
脅し文句などに屈してたまるものか! と声を大にして、言い返したいところだが、下手に動けば、今度という今度こそ、本当にぐっさりと致命傷を負わされそうだ。
次の一手を完全に封じられ、前にも進めず、後ろにも退けずにいたら、八方塞がりの私たちを嘲るように、ちろり、と横目で流し見ながら、後ろに控えている警備兵たちに向かって、余計な手出しはするな、と強い口調で命じると、不敵な笑みを浮べたまま、大胆にも、ヴィクトール卿相は、さらに、こちらへとにじり寄ってきた。
弱った獲物をなぶり殺しにする、獰猛な肉食獣のように、じわり、じわりと距離を詰めてくるヴィクトール卿相から、少しでも距離を取ろうと、小さく身動げば、そんな私に気づいた彼は、くっ、と咽喉を鳴らして嗤う。
「それにしても君のようなお嬢さんが、こんな真夜中に居城に侵入するなんて、どうするつもりだったんだい?」
「それは――……」
「まあ、あえて、その理由を聞く必要なんてないけれどね。こんな真夜中に居城に侵入してくる輩なんて、宝物庫に眠る金銀財宝をつけ狙う夜稼ぎか、あるいは陛下の命をつけ狙う暗殺者のいずれかだろう。もっとも君たちに関しては、少し事情が異なるようだけれど……ねえ?」
質問を投げかけたくせに、こちらからの回答も待たず、滔々と自論をお披露目すると、ヴィクトール卿相は、くつり、と愉しげに嗤いながら、また一歩、距離を詰めてくる。
さすがに身の危険を感じたのだろう。
大勢の警備兵が現れても、冷静に対処していたレナードが、背中に私を庇いながら、両手で支え持っていた戦鎚を構え直して、警戒態勢に入ったものの、ヴィクトール卿相は、どこ吹く風といった感じで、ちらり、とレナードに一瞥をくれただけで、意にも介さず、ふたたび、その唇を開いた。
「我々とて無能ではないんだよ、お嬢さん。アレクシオ以外にも、協力者はいるだろうと踏んで、色々と調べていくうち、ブロワーズ侯爵家のご子息が、この一件に絡んでいるのではないか、という結論に至ってね。水面下で彼の動向を探っていたその矢先に、ブロワーズ侯爵家が所有する馬車が入城した、という報せを受けたんだ。人間というのは、どこまでも愚かで浅はかなものだよねえ。あの馬車の御者ときたら、金貨を一枚ちらつかせただけで、簡単に口を割ったよ」
「――……っ、」
アレクの無実を証明するためならば、いかなる協力も惜しまないと、後ろ盾になってくれていた、クロフォード第二騎士団長が、手配した馬車の御者が、あろうことか、金貨に目が眩んで裏切り行為を叩いたことを、意外な形で知ることとなり、ぎゅうっ、と唇を噛み締めていたら、こちらを、ちらり、と見やりつつも、ヴィクトール卿相は表情を一つ変えることなく、先に続く言葉を淡々と紡いだ。
「一生遊び暮らせるほどの大金を積まれたのなら、まだしも、せいぜい数か月程度、贅沢が楽しめるくらいの金に目が眩んだがために、自分の人生を棒に振るなんて、本当に浅はかだよ。ブロワーズ侯爵家を敵に回して、これから先、あの御者が地獄を見るのは、火を見るより明らかだ。ああ、悪かったね。こんな話、君にとっては、どうでもいい下らない話だっただろうに――……それで君たちの目的は陛下に会うことだったかな? それだったら残念だったね。御者からの話を受けて、危害が及ばないよう、陛下には、しばらくの間、離宮の方へ移ってもらうことにしたんだ。だからどんなに探しても、陛下に会うことは適わないよ」
勝ち誇ったように、高らかにそう告げると、長話はここまでだ、とでも言うかのように、ヴィクトール卿相は後ろに控えていた警備兵に目配せをした。
と同時に控えていた警備兵たちが、一斉に飛び出してきたかと思えば、背中の後ろに、私を庇うレナードを瞬く間に包囲してしまう。
「美緒! 早く逃げろ!」
大勢の警備兵に包囲されながらも、戦鎚を振り回して、激しく抵抗をしながら、レナードがそんなことを言うけれど、多勢に無勢というもので、抵抗も虚しく、レナードはすぐさま取り押さえられてしまった。
取り押さえられても尚、抵抗しようとするレナードに苛立ちを覚えたのか、警備兵の一人が拳を突き上げて、おとなしくしろ! と怒号を上げて、レナードの頬を容赦なく殴り倒す。
「――……っ、レナード! お願い、乱暴なことはやめて!」
「おっと、勝手な行動は慎んでもらわないと困るよ、お嬢さん」
殴られた口端から血が流れ落ちるのを見て、堪らず、レナードの傍に駆け寄ろうとして、いつの間にか、目の前に立ちはだかっていたヴィクトール卿相が、フライパンを握り締めている方の腕を掴む。
「やだっ! 放して!」
「そう怯えなくても大丈夫だよ、お嬢さん。いや、『月に呼ばれし異端者』と呼んだ方がいいかい?」
「ちが……わ、私は異端者なんかじゃ――……」
ヴィクトール卿相の口から出たそれに、びくり、と身体を強張らせながら、異端者なんかじゃないと言おうとしたものの、掴まれた腕をギリギリと捻り上げられ、あまりの苦痛に声を失ってしまう。
マルティーヌさんが生成した薬を飲んでるはずなのに、なんで痛みを感じるのよー! と目の縁に涙を浮かべつつ、歯を食い縛って、必死に痛みを堪えていたら、腕を締め上げるヴィクトール卿相の力が、少しだけ緩んだ。
ほう、と息を吐いたのも束の間、ヴィクトール卿相の空いた方の手が伸びてきたかと思えば、今度は顎を鷲掴みされた。
指がめり込むくらい強く掴む手から逃れようとするものの、力では敵うはずもなく、ぐいっ、と無理やりに上向かされる。
「それにしても、まさか君のような小娘が、穢れた世界を浄化させるために、全てを破壊し尽くし、無に還す存在として、人々から忌み嫌われる『月に呼ばれし異端者』だったとはねえ」
だからさっきから、それは違うって言ってるでしょー! という抗議の声は、顎を思いっきり鷲掴みされているせいで、音にすることすらできない。
もがもがと声にならない呻き声を上げていたら、細いフレームの眼鏡の奥で瞬く、青みがかった淡い緑色の瞳が、彼の心の奥底で渦巻く、黒い感情を写し込んだかのように仄暗く澱む。
「そんな心配そうな表情を浮かべなくても大丈夫だよ、お嬢さん。むやみに君の命を奪ったりなんかしないから」
命を奪うつもりがないのなら、さっさと放せ! と心の中で叫ぶが、むろん音なき声が伝わるはずもなく、もがもがと、くぐもった声を出すしかない私を見下ろすと、ヴィクトール卿相は、それ以上ないくらい、その表情を醜く歪ませた。
口の端まで裂けたかのように、極限まで湾曲した唇から奇妙な声を洩らして嗤う、その様子は、もはや悪魔でも憑依したかのようだ。
常軌を逸脱したその様子に、ぶわり、と鳥肌が立つ。
ディハルトにも底知れない怖さを感じたが、ヴィクトール卿相に対しても、それに匹敵するほどの怖さを覚えてしまう。
かくかくと小刻みに震え出した私を見下ろしながら、彼は顎を掴む指に、さらに力を加えた。
「君が本当に『月に呼ばれし異端者』だというのなら、この国を――……いや国なんて、ちっぽけなものではなく、この世界をも支配できるかもしれないんだ。せっかく捕らえた絶好の機会を、そう易々と取り逃がすわけなどないだろう?」
ヴィクトール卿相が心の奥底に眠っていた、邪悪な本心を吐き出したその直後。
「――……ほう、なかなかに面白い話をしているではないか。謁見の間で詳しく話を聞かせてもらおうか。ヴィクトール」
そんな声とともに、丁字路の向こうから、新たな衛兵を大勢引き連れて、現れた人物こそが、私たちがずっと探し求めていた国王陛下――その人だった。
不意に飛んできた揶揄を含んだ声に驚いて、後ろを振り返れば、ほんの少し離れた場所に、壁に寄りかかるよう、誰かが立っている。
ゆらゆらと揺れる、ろうそくの灯りを頼りに、目を凝らしてみれば、ちょっと神経質そうな面持ちをした美形が、そこにいた。
遠目から見ても、それなりの美形だと分かるその彼は、けれども、どこかで見たことがある顔だ。
(あれ? どこで見たんだっけ?)
窓から差し込む月明かりに照らされて、全身を薄っすらと紅に染めている美形を見つめつつ、脳内に蓄積されている記憶を、あれこれと引き出していた私は、探していた記憶を見つけ出し、ああっ! と小さな声を上げた。
それは今から四日前、図書館司書のシルヴィアナさんから、お使いを頼まれたときのことだ。
アレクに届けて欲しい本があると頼まれ、騎士団寄宿舎へと向かう途中、通りがかった建屋の前で、何やらアレクと話していたのが彼だったはず! えーっと、名前は何だったっけな。確か、ヴィなんちゃらかんちゃら、だったような気がするんだけどー、と引き当てた記憶を回顧していたら、細いフレームの眼鏡の奥で瞬く、青みがかった淡い緑色の双眸と目が合ってしまった。
途端、半開きだった美形の薄い唇が、くっ、と歪む。
それが美形には似つかわしくない、薄気味悪い嘲笑であることに気づくのと、ほぼ同時に、ヴィなんちゃらかんちゃらが、ぱちり、と指を弾いた。
と次の瞬間、それを合図と捉えたかのごとく、左右に分かれた丁字路の両側から、武器を手にした警備兵たちが、どやどやと一斉に姿を現す。
その数、ざっと見ただけでも、十人以上はいそうだ。
さっき、ヴィなんちゃらかんちゃらが、策略がどうのこうのと言っていたから、おそらく、これまで通過した部屋のどこかに身を潜めていて、絶好のチャンスが訪れるその瞬間を、今か今かと待ち構えていたのだろう。
「ヴィクトール卿相殿、如何、致しましょうか?」
後ろに控えていた警備兵の一人が、美形の名前を口にする。
あー! そうだ! ヴィクトールだ! ヴィクトール! 確かアレクも彼の事をそう呼んでいたはずだ。
なかなか出てこなかった美形の彼こと、ヴィクトール卿相の名前を思い出して、すっきり晴れ晴れとしていたら、ヴィクトール卿相は、そうだなあ、と呟くと、寄りかかっていた壁から身体を起こし、私たちの方へ向き合う。
武器を構えた大勢の兵を引き連れ、不敵な笑みを湛えて、こちらを見据える、その佇まいは、正しく、ゲームに登場するラスボスそのものだ。
いよいよこれを使う時がきたか、とフライパンを構えつつ、気迫負けしないようにと、ヴィクトール卿相を睨みつけていたら、彼は上がっていた口角を、さらに上へと引き上げた。
せっかくの美形が台無しになるほど、彼の表情が醜く歪む。
「君たちがおとなしく降伏すると言うのなら、今ここで危害を加えるような、下賎な真似はしないと約束するよ」
「美緒! あいつの言葉に惑わされてはダメだ! ここはどうにかして、俺が食い止めるから、美緒は陛下の部屋へ向かうんだ!」
ヴィクトール卿相が口にした胡散臭い言い回しに、眉をひそめて訝しんでいたら、先に動いたレナードが、ぶん殴るには最適そうな柄の長いハンマー――ここに来るまでの道すがら、たまたま見つけた武器庫で確保していた――を構えながら、私の前へと躍り出る。
最後の砦になるから、と言っていた、その言葉を実行に移したレナードに対して、申し訳ない気持ちで胸がいっぱいになったけれど、もうここまで来たら、全力で敵を振り切って、陛下に会うしかない、と覚悟を決め、真後ろに控える豪奢な造りの扉に向かって駆けようとして、ひゅっ、と空気を切り裂きながら、何かが頬を掠めて通り過ぎた。
え!? なになになになになに!? 今のはなにー!? と思いつつ、自分の足元を、そうろり、と見てみれば、つま先から数cmと離れないところに、鋭い矛先を持つ槍が、ぐっさりと突き刺さっているではないか!
もうちょっとでも足を前に進めていれば、自分の足に突き刺さっていたかもしれないと思うと、ぞわり、と背筋に冷たいものが走る。
「忠告したはずだよね? おとなしく降伏すれば危害は加えないと。その忠告を破ったのだから、然るべき対処を取らせてもらったまでだよ。君の足を貫通しなかっただけでも、ありがたいと思ってもらわないとね」
いきなり槍を投げつけるなんて危ないじゃないか! と抗議の意も込めて、悠然と構えるヴィクトール卿相を振り仰いで、思いっきり睨みつけてやれば、そんな言葉で以って返されてしまい、うぐっ、と声を詰まらせる。
口調こそ丁寧ではあるものの、ヴィクトール卿相が口にした内容は、かなり物騒なものだ。
脅し文句などに屈してたまるものか! と声を大にして、言い返したいところだが、下手に動けば、今度という今度こそ、本当にぐっさりと致命傷を負わされそうだ。
次の一手を完全に封じられ、前にも進めず、後ろにも退けずにいたら、八方塞がりの私たちを嘲るように、ちろり、と横目で流し見ながら、後ろに控えている警備兵たちに向かって、余計な手出しはするな、と強い口調で命じると、不敵な笑みを浮べたまま、大胆にも、ヴィクトール卿相は、さらに、こちらへとにじり寄ってきた。
弱った獲物をなぶり殺しにする、獰猛な肉食獣のように、じわり、じわりと距離を詰めてくるヴィクトール卿相から、少しでも距離を取ろうと、小さく身動げば、そんな私に気づいた彼は、くっ、と咽喉を鳴らして嗤う。
「それにしても君のようなお嬢さんが、こんな真夜中に居城に侵入するなんて、どうするつもりだったんだい?」
「それは――……」
「まあ、あえて、その理由を聞く必要なんてないけれどね。こんな真夜中に居城に侵入してくる輩なんて、宝物庫に眠る金銀財宝をつけ狙う夜稼ぎか、あるいは陛下の命をつけ狙う暗殺者のいずれかだろう。もっとも君たちに関しては、少し事情が異なるようだけれど……ねえ?」
質問を投げかけたくせに、こちらからの回答も待たず、滔々と自論をお披露目すると、ヴィクトール卿相は、くつり、と愉しげに嗤いながら、また一歩、距離を詰めてくる。
さすがに身の危険を感じたのだろう。
大勢の警備兵が現れても、冷静に対処していたレナードが、背中に私を庇いながら、両手で支え持っていた戦鎚を構え直して、警戒態勢に入ったものの、ヴィクトール卿相は、どこ吹く風といった感じで、ちらり、とレナードに一瞥をくれただけで、意にも介さず、ふたたび、その唇を開いた。
「我々とて無能ではないんだよ、お嬢さん。アレクシオ以外にも、協力者はいるだろうと踏んで、色々と調べていくうち、ブロワーズ侯爵家のご子息が、この一件に絡んでいるのではないか、という結論に至ってね。水面下で彼の動向を探っていたその矢先に、ブロワーズ侯爵家が所有する馬車が入城した、という報せを受けたんだ。人間というのは、どこまでも愚かで浅はかなものだよねえ。あの馬車の御者ときたら、金貨を一枚ちらつかせただけで、簡単に口を割ったよ」
「――……っ、」
アレクの無実を証明するためならば、いかなる協力も惜しまないと、後ろ盾になってくれていた、クロフォード第二騎士団長が、手配した馬車の御者が、あろうことか、金貨に目が眩んで裏切り行為を叩いたことを、意外な形で知ることとなり、ぎゅうっ、と唇を噛み締めていたら、こちらを、ちらり、と見やりつつも、ヴィクトール卿相は表情を一つ変えることなく、先に続く言葉を淡々と紡いだ。
「一生遊び暮らせるほどの大金を積まれたのなら、まだしも、せいぜい数か月程度、贅沢が楽しめるくらいの金に目が眩んだがために、自分の人生を棒に振るなんて、本当に浅はかだよ。ブロワーズ侯爵家を敵に回して、これから先、あの御者が地獄を見るのは、火を見るより明らかだ。ああ、悪かったね。こんな話、君にとっては、どうでもいい下らない話だっただろうに――……それで君たちの目的は陛下に会うことだったかな? それだったら残念だったね。御者からの話を受けて、危害が及ばないよう、陛下には、しばらくの間、離宮の方へ移ってもらうことにしたんだ。だからどんなに探しても、陛下に会うことは適わないよ」
勝ち誇ったように、高らかにそう告げると、長話はここまでだ、とでも言うかのように、ヴィクトール卿相は後ろに控えていた警備兵に目配せをした。
と同時に控えていた警備兵たちが、一斉に飛び出してきたかと思えば、背中の後ろに、私を庇うレナードを瞬く間に包囲してしまう。
「美緒! 早く逃げろ!」
大勢の警備兵に包囲されながらも、戦鎚を振り回して、激しく抵抗をしながら、レナードがそんなことを言うけれど、多勢に無勢というもので、抵抗も虚しく、レナードはすぐさま取り押さえられてしまった。
取り押さえられても尚、抵抗しようとするレナードに苛立ちを覚えたのか、警備兵の一人が拳を突き上げて、おとなしくしろ! と怒号を上げて、レナードの頬を容赦なく殴り倒す。
「――……っ、レナード! お願い、乱暴なことはやめて!」
「おっと、勝手な行動は慎んでもらわないと困るよ、お嬢さん」
殴られた口端から血が流れ落ちるのを見て、堪らず、レナードの傍に駆け寄ろうとして、いつの間にか、目の前に立ちはだかっていたヴィクトール卿相が、フライパンを握り締めている方の腕を掴む。
「やだっ! 放して!」
「そう怯えなくても大丈夫だよ、お嬢さん。いや、『月に呼ばれし異端者』と呼んだ方がいいかい?」
「ちが……わ、私は異端者なんかじゃ――……」
ヴィクトール卿相の口から出たそれに、びくり、と身体を強張らせながら、異端者なんかじゃないと言おうとしたものの、掴まれた腕をギリギリと捻り上げられ、あまりの苦痛に声を失ってしまう。
マルティーヌさんが生成した薬を飲んでるはずなのに、なんで痛みを感じるのよー! と目の縁に涙を浮かべつつ、歯を食い縛って、必死に痛みを堪えていたら、腕を締め上げるヴィクトール卿相の力が、少しだけ緩んだ。
ほう、と息を吐いたのも束の間、ヴィクトール卿相の空いた方の手が伸びてきたかと思えば、今度は顎を鷲掴みされた。
指がめり込むくらい強く掴む手から逃れようとするものの、力では敵うはずもなく、ぐいっ、と無理やりに上向かされる。
「それにしても、まさか君のような小娘が、穢れた世界を浄化させるために、全てを破壊し尽くし、無に還す存在として、人々から忌み嫌われる『月に呼ばれし異端者』だったとはねえ」
だからさっきから、それは違うって言ってるでしょー! という抗議の声は、顎を思いっきり鷲掴みされているせいで、音にすることすらできない。
もがもがと声にならない呻き声を上げていたら、細いフレームの眼鏡の奥で瞬く、青みがかった淡い緑色の瞳が、彼の心の奥底で渦巻く、黒い感情を写し込んだかのように仄暗く澱む。
「そんな心配そうな表情を浮かべなくても大丈夫だよ、お嬢さん。むやみに君の命を奪ったりなんかしないから」
命を奪うつもりがないのなら、さっさと放せ! と心の中で叫ぶが、むろん音なき声が伝わるはずもなく、もがもがと、くぐもった声を出すしかない私を見下ろすと、ヴィクトール卿相は、それ以上ないくらい、その表情を醜く歪ませた。
口の端まで裂けたかのように、極限まで湾曲した唇から奇妙な声を洩らして嗤う、その様子は、もはや悪魔でも憑依したかのようだ。
常軌を逸脱したその様子に、ぶわり、と鳥肌が立つ。
ディハルトにも底知れない怖さを感じたが、ヴィクトール卿相に対しても、それに匹敵するほどの怖さを覚えてしまう。
かくかくと小刻みに震え出した私を見下ろしながら、彼は顎を掴む指に、さらに力を加えた。
「君が本当に『月に呼ばれし異端者』だというのなら、この国を――……いや国なんて、ちっぽけなものではなく、この世界をも支配できるかもしれないんだ。せっかく捕らえた絶好の機会を、そう易々と取り逃がすわけなどないだろう?」
ヴィクトール卿相が心の奥底に眠っていた、邪悪な本心を吐き出したその直後。
「――……ほう、なかなかに面白い話をしているではないか。謁見の間で詳しく話を聞かせてもらおうか。ヴィクトール」
そんな声とともに、丁字路の向こうから、新たな衛兵を大勢引き連れて、現れた人物こそが、私たちがずっと探し求めていた国王陛下――その人だった。