世界で一番、透明な私へ。 〜二色の花が咲く場所〜
第1章

太陽の妹と、月の姉



 世界はいつだって、光の当たっている場所を中心に回っている――そんな冷たくもはっきりした事実を、私は物心ついた頃からぼんやりと感じていた。
 朝のダイニングテーブルは、今日も眩しいほどの明るさに満ちている。白いレースのカーテン越しに差し込む柔らかな朝日が、テーブルの上の焼き立てトースト、フルーツがたっぷりのヨーグルト、丁寧に淹れられた紅茶を優しく照らしている。
 その光の中心にいるのは、当然だというように妹の光梨だった。
光梨(ひかり)ちゃん、忘れ物ない? 今日は放課後、雑誌の撮影があるんでしょう? ちゃんと時間に遅れないようにね。メイクさんにも前回すごく褒められてたわよ」
 母の声は甘く、期待と愛情に満ち溢れている。光梨はパンを大きな口で頰張りながら、まるで小さな太陽のようにキラキラした笑顔を振りまいた。小学五年生とは思えないほどすらりとしたスタイルに大きな瞳、柔らかい栗色の髪。そして誰をも自然と笑顔にする、天真爛漫な性格。笑うとエクボが出来るところ。上げたらキリがないくらいそのすべてが、完璧に輝いていた。
「……わかってるってば、お母さん! あ! このグロス、お姉ちゃんに借りてもいい? 今日の撮影、ちょっと大人っぽくしたいんだよね~。唇をぷるぷるにしたら、もっと可愛く見えるかな?」
「え、私の? でも、あれはこの前買ってもらったやつで……」
 私がそう言うと、お母さんが「明梨はお姉さんなんだからいいじゃない。それに光梨とは違って使わないでしょう?」とキッチンで私に告げた。
「……っ……」
 お母さんの言葉に光梨は、私の顔をのぞき込んでくる。期待で輝く瞳が、断るわけないよね?と無邪気に語りかけているようだった。
「……いいよ。私、使わないし、勝手に持っていって」
「え! いいの!? やったぁ! ありがと! 大好き! お姉ちゃん!」
 私は自分の前のトーストを、ほとんど味を感じずに黙々と口に運んだ。バターの香りも、軽く焦げた耳の部分の食感も、すべてが遠くなる。咀嚼する音だけが、静かに自分の耳に響くだけだった。
 私の名前は明梨(あかり)。光梨の二つ年上の姉だ。名前だけ聞けば、光と明が優しく寄り添う姉妹のように聞こえるかもしれない。でも、現実はそんな優しいものではなかった。
 光梨が太陽なら、私はその強烈な光に飲み込まれ、影に溶け込んだ、昼間の月みたいな存在だった。確かに空に浮かんでいるのに、誰も目を留めない。明るすぎる日差しの下では、ただの薄ぼんやりとした影にしか見えない、寂しい月。
「お母さん、今日の撮影ってどの雑誌? 『キラキラガール』? それとも『ティーン・スタイル』? 前回のページ、すっごく可愛かったって学校の友達がみんな褒めてくれたんだよ~! 特にあのピンクのワンピースのやつ! インスタにもアップされてて、いいねがいっぱいだったよ!」
 光梨が楽しそうに話し続ける。母は目を細めて何度も頷きながら、時々私のほうをチラリと見る。その視線には、期待と少しの失望が混じっているように感じられた。
「明梨も、少しは光梨の姿勢を見習いなさい。そんなに猫背だと、せっかくの可愛い制服が台無しよ。背筋をちゃんと伸ばして、もっと笑顔も練習したらどう? 光梨みたいに明るく振る舞えたら、友達ももっと増えると思うのよ」
 母の言葉が、トーストの硬くなった耳よりも固く、喉の奥に突き刺さった。胸の奥がチクリと痛み、息が少し苦しくなる。笑顔の練習……そんなもの、どれだけやっても光梨には敵わないのに。
「……うん、そうだね……」
 これ以上ここにいると、お母さんは光梨の撮影話や雑誌の反響を延々と続けそうだった。私は曖昧な返事をしながら、早くこの場を切り上げたくて椅子から立ち上がった。椅子の脚が床に擦れる小さな音が、妙に大きく聞こえた。
「じゃあ、私は行ってきます」
 二人は気付かず話を続けていたが、いつもと同じだからそのままカバンを持った。
 
 玄関で靴を履きながら、私は小さく息を吐いた。今日もまた、いつもの一日が始まる。
 学校への道のりは、いつも下を向いて歩いてしまう。前を見て歩いてもいいことがないからだ。道行く人々が進学校の可愛い制服に目を留めても、その後すぐに「光梨ちゃんのお姉ちゃんじゃない?」と付け加えられるのが落ちだった。
 どこへ行っても、私は『光梨ちゃんの姉』としてしか認識されない。自分自身の名前で呼ばれることは、ほとんどない。足元のアスファルトの小さなひび割れを数えながら歩くのが、私の毎日の習慣になっていた。
 そんな毎日の中で、少しでも自分を肯定できる場所を探して、私はこの私立の進学校を選んだ。
 笹葉(ささは)学園記念大学附属中学校――この地域では有名で、制服が可愛らしいことで女子中学生の間でも人気がある学校だ。光梨がピアノやモデルのお仕事を初めていたころ私は勉強だけが取り柄だったから夜遅くまで机に向かい必死に受験勉強に励んで合格した。
 もしかしたらこの可愛い制服を着れば少しは光梨に並べるかもしれない、お母さんも私のことを見てくれるかもしれないという、ほんの小さな淡い期待も心のどこかにあった。だがしかし、現実は変わらなかった。制服を着ても、私はただの影のままだった。
 そんな中学一年生の私の世界は、教室と家、そして図書室の三つでできていた。
 ……そして今日も、放課後の図書室は静かに私を迎えてくれる。
 図書室の窓際、一番奥の静かな席。そこには、いつも決まった人が座っている。
「……あ、来た」
 図書委員の瀬戸くんだ。彼は細身の体にシンプルなメガネをかけ、いつも少し難しい顔をして本を読んでいる。クラスでも知的な雰囲気で女子に人気があるけれど、誰にでも愛想を振りまくタイプではない。そんな静かで、どこか孤高な横顔が、私はどうしようもなく好きだった。
「……おはよう、瀬戸くん」
 勇気を振り絞って声をかけると、彼はゆっくりと顔を上げた。眼鏡の奥の瞳が、ほんの少しだけ柔らかく和らぐ気がした。
「おはよう、明梨さん。また昨日の続き、読みに来たのか? 今日は少し早かったね。部活とかない日?」
 瀬戸くんだけが、私を“光梨の姉”としてではなく、ただの“明梨”という一人の人間として呼んでくれる。彼と話している時だけ、私は自分が透明じゃなくなったような不思議な温かさに包まれるのを感じる。
 西日が大きな窓から差し込み、古い木製の机を優しいオレンジ色の光でゆっくりと染めていく。埃が光の筋の中で舞い、古い紙の香りと木の匂いが混じった図書室の空気がとても落ち着く。外の喧騒が遠く聞こえる中、ここだけが別世界のように静かだった。
 私はお気に入りの画集を膝の上にそっと置き、瀬戸くんの隣に座った。椅子が小さく軋む音がした。
「……それ、また見てるの?」
 貸出カードに判を押す手を一瞬止めて、瀬戸くんが私の手元をのぞき込んだ。視線が優しい。
「うん。この青色、好きなんだ。……雨上がりの空みたいな、ちょっと寂しいけど、すごく綺麗な色。言葉にできないくらい、胸に染みるんだ。クラスの子たちがアイドルやスイーツの話で盛り上がってる時も、私はこの色のことばっかり考えてて……」
 私が指先でそっとなぞった淡い水色の風景画を、瀬戸くんは少し目を細めて見た。
「わかるよ。明梨さんが選ぶ色は、いつも本当に丁寧だもんな。なんとなくだけど……その色選びを見ていると、明梨さんの心の中が少し見える気がする。明るい色じゃなくて、こういう少し控えめで深い色を選ぶところとか」
 心臓が、どくん、と大きく跳ね上がった。頰が熱くなる。
「え……? そんな、たいしたことじゃないよ……」
「いや、ほら。お前が図書室の掲示板に貼ったおすすめ本のポスター。あれの縁取り、ただの黄色じゃなくて、少しだけオレンジを混ぜてただろ。あの微妙なグラデーションを見て、いいなと思ったんだ。明梨さんは、ちゃんと本を深く読んで、そのイメージを大事に描いてくれる。誰も気づかないような、小さなところまで、ちゃんと見てるんだなって……それが、すごく印象に残ってるよ」
 瀬戸くんは少し照れくさそうに視線を逸らし、手元の本に目を戻した。でも、その横顔はいつもより少し柔らかく見えた。西日が彼のメガネのフレームに反射して、きらりと光る。
 視界が、急に鮮やかになった気がした。図書室の空気が、ほんの少し甘く変わったように感じる。
 お母さんも、先生も、クラスの友達も。みんな私のことを光梨の姉としてしか見ていない。背景の一部みたいに、透明な存在だと思っている。私の選んだ色も、描いた線も、誰も気づかない。
 なのに、瀬戸くんだけは違った。
 私の指先が選んだ色、私が込めた小さなこだわりを、ちゃんと、見つけてくれた。
「あっ……瀬戸くん、これ」
 私は少し震える手で、カバンの中から一冊の文庫本を取り出した。昨日、彼から借りた短編集だ。
「読み終わったよ。……すごく、良かった。特に最後、主人公が自分の足で歩き出すシーン……自分の弱さを認めて、それでも前を向くところを読んで、涙が出そうになっちゃった。胸がぎゅっと締め付けられるみたいで……私も、いつかそんな風に自分の道を歩けるようになりたいなって思った」
「そうか、良かった? ……明梨さんなら、そう言うと思ったんだ。あのシーンは僕も好きだよ。静かに、でも確実に変わっていく感じが、明梨さんの感性に合いそうだと思って、貸したんだ。どうだった? 他の話も印象に残った?」
 瀬戸くんは本を受け取ると、優しくページをめくった。指先が丁寧で、まるで大切なものを扱うように見えた。
「うん……特に、雨の日に一人で傘を忘れて歩くシーンが好き。濡れながらも、なんだか自由そうで……」
「ああ、あそこね。僕もそこは好きだ。明梨さんって、こういう静かな感情の動きを拾うのが上手いよね。僕が読む時はもっとストーリーの流ればっかり追っちゃうけど、明梨さんは細かい心情とか、背景の描写まで丁寧に読んでる気がする」
 彼の言葉が、胸の奥にじんわりと染み込んでくる。こんな風に、自分の読み方を具体的に褒められるなんて、初めてだった。
「あ、栞挟まってる……これ、手作り?」
「えっ、あ! うん……」
 彼の手には、私が水彩絵の具で描いた小さな厚紙の栞があった。そこには、図書室の窓から見える一本のキンモクセイの木が、柔らかいタッチで、葉の一枚一枚まで丁寧に描かれている。秋の陽射しを受けたような、優しい黄色のグラデーションを意識した。
「……すごいな。絵もこんなに上手かったんだね、明梨さんって。葉の陰影とか、色の重ね方が本当に繊細だ。このキンモクセイの黄色、ただの黄色じゃなくて、ちょっと緑が混ざってるよね? それが夕方の光に映えてて、すごく自然」
「そんなことは、ないけど……ありがとう。た、ただの趣味だから……時間がある時に、ぼーっと描いてるだけなんだ」
「いや、本当に上手だよ。明梨さんって勉強もできるし、歌も上手いって聞いたし、ピアノも弾けるんだろ? それに絵までピカイチだなんて……正直、すごいなってずっと思ってた。このキンモクセイの黄色のグラデーション、ほんとに綺麗だよ。光の当たり方がすごく自然で、見てるだけで温かい気持ちになる。僕、こういう手作りのもの、好きなんだ」
「そ、そんなに褒めないで……っ」
 こんなにたくさん、こんなに具体的に褒められたことなんてほとんどない。顔が熱くなって、耳まで真っ赤になっているのが自分でもわかった。視線を落として、膝の上の画集をぎゅっと握る。心臓の音が、図書室の静けさの中でやけに大きく聞こえる。
 瀬戸くんは少し間を置いて、静かに続けた。
「なぁ、これ貰っていい? めちゃくちゃ綺麗だから、欲しいんだけど。僕の手帳に挟んで、毎日見たい。……なんか、明梨さんの感じが詰まってるみたいで」
「えっ、ぜ、全然いいけど……そんなのでいいの? もっとちゃんとしたの、描き直してもいいよ? 今度、別の絵を描いて持ってくるから……」
「うん。これがいい。このままで。わざわざ新しいのじゃなくて、これが欲しいんだ。明梨さんがこの栞を作った時の気持ちとか、窓から見たキンモクセイの感じとか……それがそのまま入ってるから」
 瀬戸くんは、その栞をとても大切そうに、自分の手帳の間にそっと挟んだ。その仕草が、驚くほど優しくて丁寧で、私の胸を強く締め付けた。
 その瞬間、私の胸の中に、甘酸っぱい風が優しく吹き抜けた。たった一枚の小さな栞なのに、こんなに喜んでもらえるなんて思わなかった。彼の穏やかな笑顔を見ているだけで、心臓がドキドキして、言葉が出てこないほどだった。
 光梨がモデルの仕事で何万人に褒められるよりも、瀬戸くんにこの小さな栞を喜んでもらえることの方が、何百倍も何千倍も、私の心を温かく満たしてくれる。
(瀬戸くんだけは、私の本当を知ってくれている。ひかりの影じゃない、私自身のことを——私の選んだ色も、感じた想いも、ちゃんと見てくれている。こんな風に、誰かに明梨としてみてもらえる日が来るなんて……)
 窓の外では、夕暮れの空が深い群青色にゆっくりと染まり始めていた。
 その色は、悲しいくらいに綺麗で、胸に染み入るようだった。
 私はこの穏やかで甘い幸せが、ずっと、ずっと続くものだと、心の底から信じて疑わなかった。
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