世界で一番、透明な私へ。 〜二色の花が咲く場所〜
第2章

壊れた魔法



 幸せの魔法が解けるときは、いつも一瞬だ。
 昨日、瀬戸くんが私の手作りの栞を大切そうに手帳に挟んでくれた瞬間。あの指先の少し硬い感触、眼鏡の奥で柔らかく細められた瞳、静かに浮かべた微笑みがまだまぶたの裏に焼き付いて離れない。
 胸の奥が甘く疼いて、今日一日、私はまるで違う世界にいるみたいだった。
 いつも重たく感じる教科書が、羽のように軽い。授業中の先生の声も、なんだか弾んでいるように聞こえてくる。ノートに落書きする指先さえ、優しくなった気がした。黒板の隅に小さく描いた淡い水色の空がまるで自分の心を映しているようで、授業が終わるまで何度も目で追っていた。
 放課後のチャイムが鳴るのが待ちきれなくて、カバンの胸ポケットには瀬戸くんが「読んでみたい」と言っていた作家の新しい文庫本を大事に入れていた。

 「これ、見つけたよ」って、いつもの窓際の特等席で、いつものように静かな声で話したかった。ただそれだけで、今日の私は頑張れた。
 
 私はずっと、光梨の影として生きてきた。
幼い頃から、家族や周囲の視線はいつも妹の明るい笑顔に注がれていた。
 同じ血を分けた姉妹なのに光梨は太陽のように輝き、私はその光を薄く反射するだけの影だ。親が無意識に“光梨は可愛いね”“あかりは大人しいね”と言われるたびに心のどこかで小さな棘が刺さった。

 『年上なんだから我慢しなさい』
 『お姉ちゃんはしっかりしてるから大丈夫』
 そう期待される一方で、光梨の成功は素直に褒められるのに私の努力は……まあ、当然だよねとして通り過ぎる。

 そんな日常の中で、私は自分の色を大切に守るようになった。
 淡い水色や柔らかな黄色で描く絵は、私だけが感じる世界の証。大好きなものだ。誰も奪えない、私の居場所だった。
 でも、その居場所さえ、最近やっと見つけた瀬戸くんとの時間は初めて温かみを感じ始めていた。
 図書室の裏側に近い、中庭に面した渡り廊下を通ったときだった。湿り気を帯びた風が頰を撫で、聞き慣れた少し低くて心地よいはずの声が流れてきた。
「――瀬戸、お前さ。最近いつも図書室で光梨ちゃんの姉の方と一緒だよな」
 ピタリと足が止まった。心臓が、トクンと大きく波打つ。
 私は慌てて太い柱の陰に身を隠し、息を殺した。声の主は瀬戸くんと同じクラスの男子数人。よく瀬戸くんが一緒にいる男子達だ。そんな彼らからは茶化すような、いかにも男子らしい軽いノリが、湿った空気に混じっている。
「明梨……あぁ」
 瀬戸くんの声が聞こえた。でも、それは昨日、私の隣で静かに囁いてくれたあの優しいトーンではなかった。どこか遠くて、ひどく冷たい、他人のような響きだった。
 私は、彼が「あいつとは気が合うんだ」なんて言ってくれるのを期待して耳を澄ませた。爪がカバンの持ち手に深く食い込み、痛い。この時、この場からもっと早く離れていたら通り過ぎていたら良かったと思ってしまう。
 この後何を言うのか気になって息をひそめる。
「お前、あんな地味なやつが好きなの? もっと可愛い子、他にいくらでもいるだろ。あいつ、クラスでも全然喋らないし、何考えてんのか分かんなくて、ちょっと怖いわ。いつも一人で本読んでるだけじゃん」
「……いや、別に。好きとかじゃないよ」
 瀬戸くんの言葉が、淡々と落ちてきた。私の胸に、冷たい針が刺さる。
「あいつ、いっつも一人で図書室にいるからさ……まあ、なんとなく相手してるだけだよ。だってかわいそうじゃん、一人ぼっちは。誰も話しかけないみたいだし、放っておくのも悪いかなって」
 その瞬間、世界からすべての音が消えた。
 心臓が、冷たい氷の塊を無理やり飲み込んだみたいに芯から冷え切っていく。指先がじんわり痺れ、息が苦しい。
 瀬戸くんの言った言葉が信じられない。相手してるだけって、どういうこと……?
 私の選んだ淡い水色の風景画を丁寧だって言ってくれたのも、あのキンモクセイの栞をめちゃくちゃ綺麗だと受け取ってくれたのも。全部、ただの同情だったの?ただの、暇つぶしだったってこと?
 私が信じかけた自分でもいいかもという小さな光が、音を立てて砕け散る。胸の奥で何かが引き裂かれる音がした。
 私は最初から、誰にも必要とされていなかったんだ。瀬戸くんにとってもただの「かわいそうな一人ぼっち」でしかなかった。全部、ただの哀れみで塗りつぶされていた。私が生きている意味なんて、最初からなかったのかもしれない。

 光梨の引き立て役として存在している私は、ずっとそうやって「かわいそう」と思われて生きていくのだろうか。
 男子の一人が笑いながら続ける。
「でもさ、あの子の妹、めちゃくちゃ可愛いよな。この前、校門のところに迎えに来てたの見たけど、モデルやってんだろ? スタイルも顔も完璧じゃん。ぶっちゃけ、あんな子が妹なら、彼女も大変だよな。姉妹で全然違うし、見てる方が気まずいわ。妹の方が太陽みたいに明るくて、あかりは影みたいだもんな」
 周りの男子たちが、下品に笑い声を上げた。まるで面白いネタでも見つけたかのように。
 お願い、否定して。
私には、私だけの良さがあるんだって。そう言ってほしかった。私をちゃんと見てくれているって……信じたかった。
 私は祈るように目を閉じ、拳を強く握りしめた。けれど、返ってきたのは、私の淡い期待を無残に踏みにじる、瀬戸くんの乾いた笑い声だった。
「……まあな。妹さんは、確かに華があるよな。あの子は……まあ、地味だし。付き合うなら、ああいう明るくて可愛い子の方が、絶対楽しいに決まってるだろ? 話してても、あかりはなんか静かすぎて、何考えてるか分かんないし。妹みたいに笑顔でぺちゃくちゃ喋ってくれたらいいんだけどな。まあ、血がつながってるのに全然違うよな、あの二人」
 さらに別の男子が茶化すように続ける。
「瀬戸、お前優しすぎだろ。一人ぼっちのあかりに付き合ってやるなんて、聖人じゃん。俺だったら絶対無理。地味子と二人で図書室とか、なんか寒気するわ」
 瀬戸くんは小さく肩をすくめて、軽く笑っただけだった。
 そこから先の記憶は、ひどく断片的だった。
 気づいたときには、私は土砂降りに変わり始めた校庭を、がむしゃらに走っていた。
 冷たい雨が容赦なく降り注ぎ、制服のブラウスをびしょ濡れにしスカートを重く腿に貼りつかせた。靴の中は水が溜まり、ぐちゃぐちゃと音を立てる。髪が顔に張りつき、視界がぼやける。雨粒が頰を叩くたび、痛いほど冷たく、涙と混じり合って首筋を伝う。
 校庭の地面はすでに水溜まりだらけで、足を踏み出すたびに泥が跳ね上がり、白いソックスを汚した。遠くの校舎の明かりが、雨のカーテン越しにぼんやりと滲んでいる。世界が灰色に塗りつぶされていくみたいだった。
 息が荒く、胸が痛い。頭の中では、瀬戸くんの冷たい声が何度もリピートされる。
 (かわいそうじゃん……相手してるだけ……妹みたいに明るい子の方が……地味だし……)
 瀬戸くんだけは、私をちゃんと見てくれていると思っていた。
地味で透明な私を、一人の人間として認めてくれているのだと信じていた。
 やっと見つけた、誰にも邪魔されたくない居場所。やっと感じた、私が私としてとして必要とされる温かさを……それが、全部、ただの同情だったなんて。
 
 私は、生きている価値なんてない。光梨の引き立て役として生きていくんだな、なんて本気で思う。
 きっと、誰も本気で私を見てくれない。私自身も、絵も、想いも、全部無駄だった。こんな自分、消えてしまえばいいのに……。
 雨に打たれながら、胸の奥で黒い渦がどんどん大きくなっていく。息をするのも苦しくて、涙が止まらない。世界に、私の居場所なんて最初からなかった。


  ***
 
 家に着いたときには、雨はさらに激しくなっていた。
 玄関のドアを開けると、家の中は不自然なほど暖かく、甘い花の香りが漂っていた。リビングからは、光梨の弾むような歌声が聞こえてくる。
「お姉ちゃん、おかえりー! 見て見て! 今度のピアノの発表会のプログラムの試作! ここにお姉ちゃんの絵をどーんと入れたいって、お母さんと話してたんだよ〜! お姉ちゃんの絵、すっごく綺麗だから、絶対目立つと思うの!」
 駆け寄ってきた光梨が、私のずぶ濡れでボロボロな姿を見て目を丸くした。でも、その表情はすぐにいつもの明るい笑顔に戻った。
「え、わっ、お姉ちゃんびしょ濡れじゃん……どうしたの? 傘忘れたの!? 雨に降られちゃった?」
「うん……そうなの」
「珍しいね、お姉ちゃんが忘れ物なんて。でも、見て見て! このプログラム! お姉ちゃんの絵が入ったら、めっちゃ可愛くなるよね。わたしの写真と一緒に並んだらいい感じになると思うの! お姉ちゃんの色使いって、わたしの明るい感じと合って素敵だと思うんだ~」
 光梨の言葉が、優しいはずなのに、私の胸をえぐっている。悪意はないのに、光梨の明るい感じと比較されるのが今はつらい。たまらなく辛い。
幼い頃から繰り返されてきたこの比較が、今日も私の心を削る。
 やっぱり私は光梨の隣でしか認めてはもらえないのかと悲しくて、どうしようもなくやるせなくなる。
「……いらない」
「えっ? お、お姉ちゃん?」
「そんなの、いらない! 私の絵を、あんたの引き立てる道具にしないでよ……っ!」
 いつの間にか、叫んでいた。喉の奥が焼けるような、自分でも聴いたことがないほど醜い、掠れた声だった。息が詰まって、視界がぼやける。
「お姉ちゃん、どうしたの……? 私、ただ、お姉ちゃんの絵が素敵だから……一緒に使えたら嬉しいなって思っただけで。わたしだけじゃなくて、お姉ちゃんの絵もみんなに見せたいんだよ。だって、お姉ちゃん、絵上手いもん。わたしのモデル写真の横に並んだら、もっと華やかになると思うんだよね~」
「……っ、光梨には、一生わからないよ! 何でも持ってて、何でもできて、みんなに愛されて……! 私がやっと見つけた居場所も、私の好きな人まで、あんたのことばっかり……! 私なんか、あんたの明るさを引き立てるための、薄暗い背景でしかないんだもん……っ」
 私はカバンから、大切にしていたスケッチブックを取り出す。思い切り開くと、力任せにページを掴んだ。濡れた髪から雫がスケッチブックに落ちて絵がにじんでいく。
「えっ……お姉ちゃん、なにして……」
 指先に力を込めて一ページずつ、破っていく。破る乾いた音が部屋に響いた。
 バリッ、バリバリッ――。
 昨日まで、瀬戸くんのことを想いながら、一筆一筆に願いを込めて描いたページが、無残な紙切れになっていく。雨で湿った紙が裂ける音が、耳に突き刺さる。今まで積み上げていたものが全て意味のないゴミになっていく。
 最初に破いたのは、図書室の窓から見た淡い水色の空のページだった。
次に、キンモクセイの柔らかい黄色のグラデーションを何度も重ねて描いたページ。
 雨に濡れてインクが少し滲んだ紙が、びりびりと引き裂かれるたび、胸の奥が一緒に引き裂かれるような痛みが走る。破れた端が指に刺さり、血がにじむのも気づかない。
 散らばった紙切れが床に落ち、雨の滴が混じってさらにぐちゃぐちゃに溶けていく。私のたった一つの誇り、瀬戸くんとの思い出、全部が無残なゴミの山になった。
 その光景を見ながら、私はさらに暗い渦に飲み込まれていく。
 (私は、何のために生まれてきたんだろう……。誰も必要とされていない。破れた紙みたいに、簡単に切り捨てられる存在なのだ。どれだけ頑張っても、光梨の光が強ければ強いほど、私はますます薄れてしまう。頑張ったところで何の意味もなさない)
「本当にどうしたの、お姉ちゃん……」
「私は、私として、ここにいたかっただけなのに……! 誰も、私を見てくれない……誰も、必要としてくれない……もう、何もかも消えちゃえばいいのに……!」
 崩れ落ちるように膝をつき、私は顔を覆って泣きじゃくった。嗚咽が止まらない。胸が締め付けられて、息をするのも苦しい。誰もわかってくれない。この痛み、この寂しさ。やっと信じかけたこんな自分でもいいかもという気持ちが、粉々に砕け散った。
 光梨もお母さんもこんなになる私を見たことなかったのか驚いて、どうしていいのかわからなくて呆然としている。
 そんな中、雨の音が私の泣き声を冷酷に飲み込む。そして、すべてを灰色に塗りつぶしていく。
 窓の外では、激しい雨音が止まらず聞こえてくる。それは私の情けない叫びを冷酷にかき消し続けていた。
 
 幸せの魔法は、呆気なく壊れた――残ったのは冷たい雨の音と散らばった紙切れ。
 そして胸の奥にぽっかりと空いた、黒くて深い穴だけだった。
< 2 / 11 >

この作品をシェア

pagetop