世界で一番、透明な私へ。 〜二色の花が咲く場所〜
第4章

さよなら、昨日までの私



 
 あの日の翌日は二人とも真っ赤な目になってしまった。それに対してお母さんは怒りながらも冷たいタオルを用意してくれた。ちゃんと光梨と話をしたからか、光梨のついででも嬉しかった。
 そして月曜日、雨上がりの空気は驚くほど透明で、どこか冷たく研ぎ澄まされていた。
 校門へと続く緩やかな坂道を上る私の足取りは、先週までとは決定的に違っていた。
 いつもなら、すれ違う誰かの視線を恐れて、下を向いて歩いて地面のタイルのひび割れや靴の先ばかりを数えていた。まるで自分という存在が、誰かの目に映るのを避けるように歩いていた。けれど今日は、少しだけ顔を上げることができた。
 雨に洗われた新緑の葉が放つ、むせ返るような爽やかな匂いを胸いっぱいに吸い込む。風が頰を撫でる感触さえ、なんだか優しく、背中をそっと押してくれるように感じられた。空はまだ薄い灰色を帯びていたが、その向こうに広がる青が、かすかに覗いている気がした。
 カバンの中には、昨日光梨と一緒に近所の文房具店へ行って二人で選んだ新しいスケッチブックが入っている。ずっしりとした厚みのある紙の重み。指先に伝わる表紙のざらりとした質感。まだ一筆も入れられていない真っ白なページは、これからの私そのものみたいに見えた。
 何色に染めるかも、何を描くかも、誰に遠慮することなく全部私が決めていいんだ。そう思うだけで、胸の奥が少しだけ温かくなり、指先が微かに震えた。
 まるで、このスケッチブックが、私の新しい始まりを静かに約束してくれているようだった。
 昨日、光梨はスケッチブックを手に取りながら、目を輝かせて言っていた。

「この紙、すごくいい感じじゃない? はぁ、お姉ちゃんの描く表紙とても楽しみ!」
 その無邪気で純粋な笑顔を見ていると、胸の奥がじんわりと熱くなった。あの深夜、ボロボロの指でピアノを叩いていたひかりの姿——指先が鍵盤に当たるたび、痛々しく震えて声を殺して嗚咽を漏らしていたあの背中と、今の明るい笑顔は重ならない。だけどあの夜にたくさん話したことでいつもとは違う気がした。
 あの瞬間、私の不器用な絵が、誰かの明日を繋ぎ止める力を持っていたことを、初めて実感した。
 昇降口に近づくにつれ、心臓の鼓動が少し速くなる。使い古された下駄箱の前で、聞き慣れた声がした。
「……明梨さん」
 心臓が、一度だけドクンと大きく跳ねた。でも、それは以前のような甘いときめきではなかった。
 治りかけの生傷を、うっかり硬い指先でそっと触れてしまったときのような、静かで鋭い痛みと違和感が混じったものだった。まるで、長い間抱きしめていたぬくもりが、急に冷たくなったような。
 振り向くと瀬戸くんがそこに立っていた。いつも通り、端整な顔立ちに銀縁の眼鏡をかけている。
 でも、今日の彼はどこか落ち着きがなくて上履きに履き替える手元がひどくおぼつかない。私と目が合うと、彼は気まずそうに視線を泳がせてすぐに逸らした。
 眼鏡の奥の瞳が、いつもより少し曇っているように見えた。
「……おはよう、瀬戸くん」
 努めて普通に挨拶を返すと、彼はホッとしたように肩の力を抜いた。
 周りに他の生徒がいないことを何度も確認してから、私に歩み寄ってくる。その慎重な足音が、今の私には少し寂しく、遠く聞こえた。まるで、私との距離が、すでに少しずつ広がり始めているかのように。
 今ならわかる、瀬戸くんは本当は私と二人きりになりたくないんだ。
「あのさ、先週の金曜日……図書室の裏で、俺の話聞いてただろ? ……あれ、違うんだよ」
 瀬戸くんは、堰を切ったように早口で喋り始めた。
 言い訳を並べる彼の唇が、微かに震えている。声の端々に、焦りと照れが混じっていた。
「あいつらがさ、しつこくお前のことばっかり聞くから……その、照れ隠しっていうか。明梨さんのことが気になってるってバレるのが、なんだか恥ずかしくて。つい、あんな言い方になっちゃったんだ。本心じゃないんだよ、信じてくれ」
 彼は顔を真っ赤にして、逃げるように俯いた。銀縁の眼鏡が、わずかにずれる。
「妹さんの方が可愛いなんて、本気で思ってない。明梨は明梨で、地味だけどいいところがあるって、俺はちゃんと分かってるから。だからさ、また放課後、図書室に来いよ。お前が好きそうな新しい画集も入ったんだ。な?」
 地味、か。やっぱりそう思ってたんだ。綺麗な言葉で誤魔化そうとしているが嘘ばかりだ。
 瀬戸くんの手が、私の制服の袖に触れそうになる。その仕草を見た瞬間、胸の奥がチクリと痛んだ。まるで、細い針で心の古傷を軽く突かれたような。
 一週間前の私なら、この言葉にすがりついて胸を熱くして喜んだだろう。
 
(よかった、嫌われてなかったんだ)
(私を見てくれていたんだ)

 そんなふうに思っただろう。
 あの図書室の窓際で、彼が私の手作りの栞を大切そうに自分の手帳に挟んでくれた瞬間が、脳裏に鮮やかに蘇る。あのとき感じた甘酸っぱい喜び、ドキドキした胸の鼓動、視界が急に鮮やかになったような高揚感……全部、本物だと思っていた。
 彼の静かな横顔が好きだった。
 眼鏡の奥の柔らかい瞳が、私を「明梨さん」と呼んでくれるのが嬉しかった。誰も気づかない私の小さなこだわり——たとえば、色鉛筆の並べ方や、絵の具の乾くのを待つ時間——を、ちゃんと見てくれる人がいるというだけで生きているのが少しだけ楽になった。
 図書室の柔らかな午後の光の中で交わした会話は、私にとって、唯一の居場所のように感じられていた。
 でも、今は違う。
 胸の奥が、じんわりと熱を帯びて痛む。
 瀬戸くん。君は、本当に私の内側にある色を、丁寧に見てくれていたの?
それとも、ただ……自分より目立たなくて、大人しくて何を言っても許してくれそうで自分の感性を全肯定してくれる便利な存在を隣に置くことで、自分のプライドを満たしたかっただけなんだろうか。
 好きだった気持ちが、まだ完全に消えていない。少しだけ、名残惜しい。
 もう一度、あの優しい声で「明梨さん」と呼ばれたいという、弱い自分が心のどこかに残っている。でも、同時に、はっきりわかった。あの優しさは、私のためじゃなかった。
 彼自身の居心地を守るための、都合のいい優しさだったんだ。図書室のあの席は、私を「影」として優しく包み込んでくれる場所だったのかもしれない。でも、今の私は、もうその影の中に留まりたくない。
「……教えてくれて、ありがとう、瀬戸くん」
 私は、自分でも驚くほど静かで、深く、凛とした声で答えた。声が震えそうになるのを、喉の奥で抑え込む。
 カバンの中から、彼に返そうと思っていた文庫本を取り出し、両手で差し出す。それは図書室という閉鎖的な世界で、私を彼に繋ぎ止めていた細くて脆い糸だった。
 表紙の端が、少し擦り切れているのがなんだか象徴的に見えた。
「この本、すごく面白かったよ。……でもね、私、もう図書室には行けない。ううん、行かない」
「え……? なんでだよ。照れ隠しだって言っただろ? 悪かったって、謝ってるじゃないか」
 瀬戸くんの声に、焦りが混じる。彼は少し慌てた様子で言葉を重ねた。眼鏡の奥で、瞳が揺れる。
「本気でそう思ってるわけじゃないんだって。俺、ただ……みんなの前でカッコつけちゃっただけなんだよ。君のこと、嫌いとかじゃない。むしろ、話してて落ち着くし、絵とか色とかの話、面白いと思うよ。だから、また来てくれよ。な?」
 その言葉を聞いていると、胸がさらに痛くなった。彼はまだ、私を都合のいい子としてしか見ていない。本当の私を、痛いほど欲しかったわけじゃない。
「怒ってるんじゃないの。ただ、分かっちゃったんだ。私、誰かに『地味だけどいいところがある』って、憐れみ混じりのおまけみたいに認めてもらうのを、ずっと、ずっと待ってた。でも、もうそんなのいらないの。誰かに認められなくても、私は、私が描くものを、私自身で信じたいから」
 私は瀬戸くんの瞳を、逸らすことなくまっすぐに見つめた。彼は驚いたように目を見開いている。私がこんなにハッキリと、澱みのない意志を言葉にするなんて、一度もなかったことだ。私の声は、意外なほどしっかりしていて、自分でも少し誇らしい気持ちになった。
「……私は、私として、描きたいものができたの。私を必要としてくれる、大切な妹に届けるために。だから、瀬戸くんにどう思われても、もう大丈夫なんだ。……もう、怖くないの」
 胸の奥が、チクリと痛んだ。以前なら大好きだった人の前で、こんなに冷静に「さよなら」を告げるなんて、想像もしていなかった。少しだけ、涙が込み上げてきそうになる。
 あの静かな図書室の時間、二人だけで話した穏やかな午後、すべてが愛おしくて、でももう戻れないことが、胸に染みる。眼鏡の奥の柔らかい瞳、栞を挟む優しい指先、静かに交わした言葉の数々——それらは、甘い記憶として心の片隅に残るだろう。でも、それ以上には、進まない。
 でも、私はそれを飲み込んだ。この痛みは、昨日までの私をちゃんと終わらせるための、必要な痛みだと思ったから。
 もう、誰かの言葉で自分を肯定してもらうのではなく、自分で自分の絵を信じたい。真っ白な紙の上に、私だけの線を引くために。
 瀬戸くんの唇が、何かを言い返そうとして微かに震えた。でも、私はもう待たなかった。
 待っていたら、またあの甘くて心地よい影の中に引き戻されてしまいそうだったから。
 私は本を彼の手にそっと押し返した。彼の指が、冷たく強張るのがわかった。その冷たさが、胸に染みる。まるで、最後のつながりが、静かに切れる音が聞こえたようだった。
「本、ありがとう。……さようなら、瀬戸くん」
 私は彼に背を向けて、階段を一段ずつ、自分の体重を確かめるようにして上った。一歩、一段上るたびに、胸の奥に澱のように溜まっていた重たくて暗い感情が、少しずつ剥がれ落ちていく。
 背中を追いかけてくる、戸惑いに満ちた視線を肌で感じたけれど、一度も振り返らなかった。振り返ったら、またあの甘くて心地よい中に戻ってしまいそうだったから。
 大好きだった人を、自分の意志で、自分の言葉で手放すのは、こんなに切なくて、胸が苦しくて、けれどこんなに、世界がひっくり返るほど自由なことだなんて、思ってもみなかった。
 階段の踊り場で、ふと息を吐くと、肺いっぱいに新しい空気が入り込んできた気がした。
 私は、私だけの足で、私だけの光に向かって、確かに歩き出していた。影は私の後ろに付き従うだけで、もう私を定義しない。

 
 教室に入り、自分の席に座る。周囲のガヤガヤとした話し声が、いつもより心地よく聞こえた。誰かの笑い声が、まるで私の新しい一歩を応援してくれているようだった。
 私は新しいスケッチブックを開き、削りたての鉛筆を握った。真っ白な紙の上に、最初の一線が、迷いなく力強く引かれる。それは、激しい嵐が全てを洗い流した後の空のように、どこまでも澄み渡った、決意の色をしていた。線は少し震えていたが、それでもまっすぐに伸び、紙の端まで到達した。
 放課後の薄暗い図書室よりも、今の私には、この目の前に広がる真っ白な紙の上の方が、ずっと広く、無限に自由な世界に見えていた。そこには、どんな色も、どんな形も、私の心のままに広がっていける。ひかりの笑顔を思い浮かべながら、私は次の線を引いた。色を重ねる想像が、胸を軽くした。
 昨日までの私は、もういない。
今日から、私は私の色で、私の物語を描き始める。
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