世界で一番、透明な私へ。 〜二色の花が咲く場所〜
第3章

暗闇で見つけた、妹の背中



 どれくらい泣いていただろう。
 いつのまにか部屋に戻っていた私が、ふと意識が戻ったとき部屋の中は底冷えのするような暗闇に包まれていた。
 窓の外では雨が止んでいて、先ほどまで私の心を掻き乱していた激しい雨音は、遠い記憶のようになくなっていた。
 
 体温を奪われたまま床で眠ってしまったせいか、指先が痺れるように冷たい。重い瞼をゆっくり開けると、すっかり外は暗いけど晴れていて月が出ている。月明かりに淡く照らされた床の上には自分で持ってきたのだろうか白い花びらが散ったような無惨な残骸が広がっていた。
 私が、自らの手で引き裂いたスケッチブック。
瀬戸くんが丁寧だと言ってくれた淡い水色の空も、キンモクセイの柔らかい黄色のグラデーションも、光梨の屈託のない笑顔を写し取ったデッサンも、今はただの、ぐしゃぐしゃの紙屑になっている。雨に濡れた端が少し溶け、インクが滲んで、まるで私の心と同じようにぐちゃぐちゃだ。
 破れた紙の端を触った時にできた小さな傷が、じんわりと痛んだ。
 それを見つめるだけで、喉の奥に熱い塊がせり上がってきた。胸が締め付けられ、息がうまくできない。頭の中では、瀬戸くんの冷たい声と、自分の叫び声が何度も繰り返され、自己嫌悪の波が次から次へと押し寄せてくる。
 ……何やってるんだろう、私。
 瀬戸くんに裏切られ、そのやり場のない怒りと悲しみをただ無邪気に私を慕ってくれていた妹にぶつけた。世界で一番、自分が醜い生き物になったような気がしてたまらない。このまま、透明な空気になって誰にも気づかれずに消えてしまえたらいいのに。
 誰も必要としない私のまま、静かに消えればいい。生きている意味なんて、最初からなかったのかもしれない。
 そんな暗い思いが、頭の中でぐるぐる回って止まらない。あの子の明るい笑顔が、頭の中でフラッシュバックするたび自分の存在がますます薄く、価値のないものに感じられていく。考えれば考えるほどに胸が苦しくてたまらなかった。
 
 幼い頃から私は気づいた時には光梨の引き立て役で、彼女が中心にいた。同じ家の中にいるのに彼女が褒められるたび、私は“大人しいね”“お姉ちゃんはしっかりしてるから”と、綺麗な言葉で片付けられてきた。
 母の視線はいつも光梨の輝きに釘付けで、私を見る目は『まあ、明梨は頑張ってるね』という、優しいようで少し冷たいものだった。
 
 その積み重ねが、私の心に深い劣等感を植え付けていた。光梨の成功は私の失敗を強調し、光梨の笑顔は私の沈黙を際立たせる。今日の瀬戸くんの言葉は、そんな長年の棘を一気に抉り出したような痛みだった。
 
 ――そのときだった。
 一階から、トーン、と低くて鈍い音が聞こえてきた。
 続いて、たどたどしいメロディが湿った夜の静寂を震わせる。
 ピアノだ。光梨が、練習している。
 枕元の時計に目をやると、針は深夜の一時を大きく回っている。
 ……こんな時間に?
 だけど、私とは違う。あの子は、選ばれた人間だ——少なくとも、母さんはいつもそう信じている。
 私は吸い寄せられるように部屋を出て、階段を降りた。一歩踏み出すたびに、古い木造の床がギィと鳴り、私の心臓を跳ねさせる。
 冷えた足の裏が、階段の板に吸い付くような感覚がした。暗い廊下の空気はひんやりと湿り、遠くから聞こえるピアノの音が、まるで私の胸の奥を直接震わせているようだった。
 リビングのドアが数センチだけ開いていて、そこから鋭いナイフのような細い光が漏れていた。
 隙間からそっと覗いた光景に、私は呼吸することを忘れた。
 月明かりと、小さな譜面台用のライトに照らされたピアノの前で、光梨が必死に鍵盤をかき鳴らしている。ピアノからは、無秩序な音が溢れ出されている。
 その姿はいつものキラキラしたモデルの光梨とは正反対だった。
 整えられているはずの髪は乱れているし、細い肩を激しく震わせている。そして何より、私の目を釘付けにしたのは、彼女の両手だった。
 白く細い手首には湿布やテーピングが痛々しく巻かれている。一人で巻いたのか開封済みの袋がピアノの上に乗っかっている。
 ずっと、弾いていたのかその上からさらに指を動そうとするたびひかりは苦悶に顔を歪める。唇を強く噛んでいた。鍵盤に落ちる汗の滴が、ライトの光でキラキラと光った。
 いつもなら、心地のいい綺麗で流れていくような旋律が聞こえてくるのに。
「……違う……もう一回……。私ならできる、完璧に、完璧にやらなきゃいけないんだから……」
 光梨の声は、いつもの無邪気なコロコロした可愛い声でじゃない。泣き出しそうなほど掠れ、途切れ途切れだった。
 彼女は同じフレーズを、十回、二十回と繰り返す。指が思うように動かないのか、何度も鍵盤を叩きつけるようにして音を外していた。そのたびにに光梨は自分の手を呪うように強く握りしめ、肩を落とした。まるで自分自身を罰しているかのようだ。

 そういえば……去年の秋にあった光梨が出場した小さなピアノコンクールでのことを、私は今でも鮮明に覚えている。あのときに光梨は、緊張から大事なところで指が震えたのか音を外し演奏を大きく崩してしまったことで結果は銀賞だった。
 帰りの車の中で、母さんはハンドルを握ったまま長いため息をつき、こう言った。
「光梨ちゃんは天才なのに……今日はどうしたの? 今日のために綺麗なワンピースで、あのミスがなかったら完璧だったのに。失敗したら無駄になっちゃうじゃないの。もう、あんなミスしないでちょうだい」
「ご、ごめんなさい。お母さん。次は、次はちゃんと完璧にするね」
「えぇ。光梨ちゃんは自慢の娘なんだからね。もう失望させないで」
 そうだ。私は自分はお母さんの娘として自慢なんてかけらも無いのだと分かってショックを受けていた。自分ばかり悲しく思っていた。
 だけど、光梨は……光梨も同じようにショックだったはずだ。それにお母さんのその言葉の裏に、いまさら母さんの本当の気持ちが見えた気がした。

 お母さんは、あの子を“自分の理想の娘”として育ててきた。
 明るく、才能にあふれ、誰からも羨ましがられる完璧な子。母さん自身が若かった頃に諦めた夢——モデルや音楽の道を、光梨に重ねて実現させようとしているのかもしれない。
だから母さんは、ひかりの失敗を認められない。
 失敗すれば自分の育て方が間違っていたのだと認めることになるから。
 
 「天才だから練習しなくていい」と言いつつ、実は完璧を強く求めている。私と比較して“光梨は頑張らなくても輝いている”と自分を安心させたい部分もあるのかもしれない。
 母さんの視線はいつも光梨に注がれているし、私を見る目はどこか冷めている。諦めと期待の混じったものだ。
 私には向けられない分あの視線を一身に受け止めていた光梨にはどれだけの重圧になっていたのか今になって胸が痛む。
 モデルのお仕事も同じだった。撮影の合間に『光梨ちゃんは自然体で可愛いから、練習しなくていいわよ』と言われたのに実際はポーズの研究や表情の練習を鏡の前で何時間も繰り返しているのを見たことがあった。こうやって、一人で頑張っているのをなん度も見たことがあったのに。
 母さんの前ではいつも完璧に振る舞い、簡単だったよと笑う。でも本当は、指が痛くて眠れない夜も、撮影で失敗して落ち込む日も、全部一人で抱え込んでいたんだ。
 
 あの子は、私が部屋に閉じこもって現実逃避の絵を描いている間も母さんが寝静まった後にこうして暗闇の中で血の滲むような努力を自分に強いていた。完璧に見える笑顔の裏で、ずっと一人で耐えていたんだ。
 
 ……光梨……。
 耐えきれず、声が漏れた。光梨が弾かれたように肩を揺らし、ゆっくり振り返る。
 ライトの光を逆光に浴びた彼女の瞳は、真っ赤に充血して涙で濡れていた。頰には、泣いた跡が残っている。唇はかさついて白く、いつもの明るい笑顔の欠片も見当たらない。
「お、お姉ちゃん……っ!? 起こしちゃった? ごめんね、すぐやめるから……」
 光梨は慌てて楽譜とピアノを閉じると腫れ上がった手を隠そうとした。その必死な仕草が、胸に刺さる。
 私は駆け寄り、彼女の冷えていた手を自分の両手でそっと包み込んだ。指先が予想以上に熱を持ち、震えていた。テーピングされている手が痛いのかピクッと反応して光梨は驚いていた。
「……その手はどうしたの? こんなになるまで練習してたの? 光梨は練習しなくても綺麗に弾けるってお母さんも言っていたのに」
「……お母さんの前では、そう見せてるだけだよ。だって、そうしないと、お母さんはガッカリするでしょ? 『ひかりは天才だから』って言ってくれるから、私もそう思われなきゃいけないんだよ……」
「……っ……」
「去年のコンクールで銀賞取ったとき、お母さんは車の中で『もっと頑張れば金賞だったのに』って言ったでしょ。あのとき、私、すごく怖かったの。私は、モデルの仕事もピアノも大好きだよ。モデルのお仕事も、みんなが『ひかりちゃんは可愛いから楽でいいね』って言うけど、実際はダメダメなの。練習しないとできないんだよ。天才じゃ無いんだよ、私。でも、弱音吐いたら私は見向きもされなくなる。私はお母さんにとってもみんなにとっても理想の女の子にならなきゃいけないんだよ」
 光梨は、小さな子供のように体を丸めた。声が、震えている。
「……みんな、私のことを『完璧だ』って言うよ。でもね、お姉ちゃん。私は、お姉ちゃんみたいに……自分の中から何かを創り出す才能なんて持ってないの。私はただ、誰かが作った曲を再現しているだけなの。それを私は完璧に弾かなくてはいけない。そうしないと、私の、光梨の存在する価値なんてなくなっちゃうんだ。だけど、お姉ちゃんは違う」
「……え?」
「お姉ちゃんには、お姉ちゃんにしか出せない『色』があるじゃない。私は……それが、とっても羨ましかったんだよ」
 心臓を、鋭い針で刺されたような衝撃だった。
 光梨が私を羨んでいた?お母さんにも周りにも期待もされていなかった私が、光梨にとっては羨ましかったなんて……
 私はこれまで、ひかりを太陽だと思っていた。努力もせずにすべてを手に入れ、私を引き立て役に追いやる存在だと、勝手に決めつけて嫉妬し、傷つけていた。
 でも本当は、ひかりも同じように苦しんでいた。母の期待やみんなが思う完璧の幻想、周りの羨望の視線——それらすべてが、光梨の小さな体を押し潰していた。
 お母さんの心理が、今になって少しだけ理解できた。
母さんは、光梨を完璧にしたいのではなくて自分の娘が完璧であってほしいと強く願っているのかもしれない。
 自分の人生の未練や不安を、光梨の輝きで埋めようとしている。失敗した光梨を見ると、母さん自身が失敗したように感じてしまうのかもしれない。
 だから「天才だから」と念持を繰り返し、ひかりに努力を見せないよう無意識に強いている。でもその言葉が、光梨にとっては失敗したら価値がないという重い鎖になっていた。
 私はなんて傲慢だったんだろう。自分だけが被害者だと思い込み、妹の背中を一度もちゃんと見てこなかった。彼女の笑顔の裏に隠れた孤独に、気づこうともしなかった。
 自分の劣等感ばかりに囚われ、家族の誰もが抱える痛みに目を向けていなかった。
「お姉ちゃんの描いた私の似顔絵ね、ずっと日記に挟んでるんだよ。私、あの絵の中の自分が一番好き。お姉ちゃんの目には、私がこんなに優しく映ってるんだって、自信が持てるから……だから、さっきね絵を破られたとき、私の心も一緒に破られちゃったみたいで……本当に、悲しかったの」
 光梨の嗚咽が、静かなリビングに響き渡る。細い肩が、小刻みに震えていた。
 私は、自分だけが被害者だと思っていた。
 でも、光梨もまた私の放つ静かな光に手を伸ばし、届かないことに絶望していたのだ。私たちは、同じ屋根の下で、お互いの背中に広がる巨大な孤独を一度も分かち合えていなかった。
「……ごめん。本当に、ごめんね、光梨」
 私は、自分よりも少しだけ背の高い妹を、繊細なガラス細工を扱うように優しく抱きしめた。光梨の体は驚くほど細く、冷えていて、でも必死に私にしがみついてくる。その温もりが、胸の奥の黒い穴を少しずつ溶かしていくようだった。
 光梨の髪から、いつもの甘いシャンプーの香りが微かに漂い、幼い頃に一緒に遊んだ記憶がぼんやりと蘇ってきた。
 窓の外を見ると、澄み切った月光が差し込んでいた。その光は、あんなに憎んでいたはずのピアノの黒いボディを、銀色に美しく縁取っている。
 私の心の中に、今まで知らなかった新しい色が静かに、けれど力強く滲み出していた。
 失ってしまったと思っていたものは、形を変えて、今、目の前にある。
「さっきはごめんね……描くから」
「えっ」
「さっきは八つ当たりだった。本当にごめん。だけど、私は約束する。光梨のために最高の一枚を描くから……」
 光梨が、私の胸の中で小さく頷いた。その瞬間、胸の奥の黒い穴に、ほんの少しだけ、温かい光が差し込んだ気がした。
「ありがとう、お姉ちゃん」
 初めて私は光梨のために何かをしたいと思えた。
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