消せない痕 ~甘く危うく、既婚者上司と崩れる理性~
避けられない距離
── 翌週 ──

全体会議が開かれ、
営業本部長から
新プロジェクトの立ち上げが発表された。

「今回のプロジェクトの主要担当は、
黒崎部長と白石さんに頼む」

その瞬間、私の鼓動が大きく跳ねた。

黒崎部長も、資料をめくる手を止め、
目を伏せたまま小さく息を吐く。

逃げたくても、逃げられない。

理性が拒み、
それでも本能が疼く。
矛盾だらけの任命だった。

周囲が、ざわりと色めき立つ。

「え、白石さんって転勤してきたばかりだよね?」

「でもさ、黒崎部長と相性いいよね」

「期待のペアじゃん」

「息、ぴったりだし」

囁きが鼓膜に刺さり、
指先が、かすかに震えた。

「承知しました。
本部長のご期待に沿えられるよう、
白石さんと連携し、責任をもって成果につなげます」

完璧な部長の顔。

彼の声に、動揺の欠片はない。

心を乱しているのは、私だけ。
そう、突きつけられている気がした。

動揺を必死に押し殺し、声を絞り出す。

「黒崎部長と共に、全力で取り組みます」


── 会議後 ──

本部長が会議室を出ると、
黒崎部長も資料を整えて立ち上がり、
いつもの落ち着いた歩調で後に続いた。

二人が去った途端、
椅子を引く音が一斉に響く。

ざわめきが波のように広がる中、
耳に入る声。

「マジで強いな、あの二人」

「プロジェクト、成功確定じゃない?」

「部署、また盛り上がるな」

「黒崎部長、白石さんのこと相当買ってるよね」

その何気ない囁きが、
私の胸に刃のように突き刺さる。

褒め言葉なのに、
罪悪感の温度が上がり、
嬉しさより、怖さが増していく。

息が小さく乱れた。

私は誰とも目を合わせないように資料を抱え、
足早に会議室を出た。


── 廊下を歩く俺の足取りは、
次第に速くなっていた。

自席には戻らず、
人の出入りがほとんどない資料室へ入る。

扉を勢いよく閉め、
そのまま背中を預けるようにして目を閉じ、
息を吐いた。

抑えきれない苦しさに、
表情がわずかに歪む。

「……距離を取るつもりだった」

低く、かすれた声。

「このタイミングで、
彼女と共同プロジェクトなんて……」

近くのパイプ椅子に崩れるように座り、
肘を太ももに置いて両手で顔を覆う。

だが、断れない。

大きく息を吐き、自分に言い聞かせた。

「距離を保て。
あくまで上司としての距離だ」

失敗は許されない。

「このプロジェクトを必ず成功させる。
それだけに集中しろ」

この時の俺は、まだ気付けなかった――。

その決意が、取り返しのつかない誤算だということに。
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