消せない痕 ~甘く危うく、既婚者上司と崩れる理性~
── オフィス ──

オフィスに着くと、
そこにはすでに黒崎部長の姿があった。

朝の指示を出す低い声。
キーボードの音。
書類をめくる音。

忙しなく動く空気の中心に、彼はいる。

昨日、会議が終わった後の彼は、
ひどく疲れているように見えた。

肩の力がわずかに抜け、
一瞬だけ、完璧から外れた顔。

けれど今朝は違う。

背筋を伸ばし、
いつも通りの“完璧な部長”の表情で、
部下たちに的確な指示を出している。

昨夜、奥さんの手料理を食べ、
ゆっくり休めたから……?
だから、元に戻れたのだろうか。

そんなことを考えてしまう自分に、
胸の奥が、ひどく沈んだ。

ただの部下。

そう……分かってる。

とても、愚かだ。


── 午後 ──

「黒崎部長、
先方の契約書に差し替えがありました。
要点をまとめていますので、
ご確認をお願いします」

ペンを走らせていた彼の前に、書類を差し出す。

近づくだけで、
心臓が穏やかではいられなかった。

彼はペンを止め、
ゆっくりと顔を上げて私を見る。

その眼差しを見た瞬間、
胸の奥がきゅっと締めつけられる。

昨日の、あの弱い眼差し。
……気のせいじゃない。

「あの……黒崎部長。
やはり、少しお疲れでは──」

言い終える前に、
彼は静かに私の言葉を遮った。

そこにはもう、
“完璧な部長”の表情が戻っている。

「昨日の会議で、
白石さんが指摘してくれた数字を調べた。
誤りがあったよ。
本来なら、俺が先に気づくべきだった。
ありがとう。助かった」

あまりにも整った言葉に、
かえって戸惑ってしまう。

「……いえ。
黒崎部長のお役に立てたのなら、嬉しいです」

彼は、少し意外そうに私を見つめた。

喉仏がわずかに上下するのが見え、
思わず息を呑む。

「あ……いえ……部、です。
部のお役に立てて……よかったです」

顔が、熱い。
鼓動が、うるさいほどに響いている。


── 彼女の言葉と、赤く染まった頬は、
熱いシャワーで洗い流したはずの
俺の不純で汚らわしい感情を、
一瞬で呼び戻した。

なぜ、そんな顔をする。
俺を試しているのか。

それとも……彼女も?

今すぐ触れて、確かめたくなる。

君のせいで眠れなかった。
君を思い出して、何度も胸が痛んだ。

その言葉は、喉の奥で押し殺す。

吐き出した瞬間、
二度と戻れなくなる。

「ありがとう」

彼女の上司を演じるのが、精一杯だった。

「……いえ」

伏せた視線と、わずかに恥じらう表情が、
また俺の胸を締めつける。

欲望と罪悪感、そして疼きが、
胸の奥で静かに渦を巻く。

この感情のうねりこそ、
俺が一番恐れているものだった。

この時はまだ、
引き返せない始まりが、
いやおうなく迫っていることを、
俺たちは知らなかった。

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