消せない痕 ~甘く危うく、既婚者上司と崩れる理性~
残業に紛れた鼓動
目を輝かせる彼女を横目に、
心がぎしりと軋んだ。

「だったら、なおさら、戻りましょう」

この場から、一刻も早く離れたい。

逃げようとした私の腕を、
相沢さんは、さらに強く握り直す。

「ねぇ、興味ないの?
あの完璧な仕事人間の黒崎部長が、
奥さんの前ではどれだけデレるのか。
見ものじゃない?」

見たくない、
そう言いかけた言葉は、喉の奥で止まった。

ここにいる限り、
嫌でも彼の声は耳に届いてしまう。

握りしめた拳の中で、
指先が、かすかに震える。

「ああ、今ちょうど昼休憩だ」

「そんなに心配しなくても、
俺はそんなに弱くないよ」

「状況次第だけど……
できるだけ早く帰るよ」

「分かった。
帰ったらちゃんと聞く。
ああ……約束する」

その声音は、
完全に“夫”のものだった。

私に向けられる冷たい声や、
淡々とした指示、
距離を保った視線とは、
まるで別物。

相沢さんは、片手で口元を押さえ、
もう片方の手で興奮したように、
私の肩を数回たたく。

「『ああ……約束する』だって!
私も黒崎部長に言われてみたい!」

胸の奥が、きつく締め付けられ、
息が、うまく吸えない。


── 22時50分 ──

深夜のフロアに灯っているのは、
今日も、私と黒崎部長のデスクだけだった。

静まり返った冷たい空気の中で、
昼間、彼が奥さんに向けていた
あの柔らかな声が、
まだ耳の奥に残っている。

初めから知っていた。

頭では理解していたはずなのに、
奥さんの存在を現実として突きつけられ、
私が彼のそばにいられるのは、
部下としてだけなのだと、
改めて思い知らされた。

こっそり彼に視線を向けると、
夜景を背に、PC画面へ鋭い目を向け、
黙々とタイピングを続けている。

奥さんに、
早く帰ると約束していたはず……。

もうすぐ二十三時なのに、
帰る気配はない。

……まさか、
私が帰らないから、
彼も帰れないのでは。

そう思った瞬間、
自分がこの場所に
存在してはいけない異物のように感じられた。
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