消せない痕 ~甘く危うく、既婚者上司と崩れる理性~
罪の始まり
── 23時20分 ──
彼女が退社した後、
静まり返った深夜のオフィスで、
自席の背もたれに、深く身を沈めていた。
彼女の背中から伝わった鼓動。
触れたら終わる距離。
彼女が別の男に見せた、
あの弱い表情。
そのすべてが、胸を締めつける。
スマホが震え、
画面には、妻の名前。
一瞬だけ目を伏せたあと、
いつもと変わらない、落ち着いた声で電話に出た。
『やっぱり今日も遅いの? 体は大丈夫?
……そばに誰かいる? 今……ひとり?』
夫を心配する優しい声の奥に、
かすかに混じる――
見えない鎖の音。
「……ああ、ひとりだ」
『……そう』
「もう帰るよ」
通話を切ると、
スマホを伏せたまま机に置き、
再び、静かに背もたれへ沈み込む。
無言のままネクタイを緩め、
普段は決して乱さない第一ボタンに
指を掛けたまま、動きを止めた。
「……由依」
彼女の名を口にし、
まぶたを閉じる。
「……もう ……戻れないのだろう」
制御できない感情を
噛みしめるように吐き出した独り言が、
理性の底を、静かに破った。
── ビルの外に出ると
夜風が、私の頬を撫でた。
胸の奥で、
さっきの出来事が
じわりと熱を帯びたまま、
鼓動は、まだ落ち着かない。
背中越しに感じた、彼の温もり。
耳元に落とされた、初めて聞く甘い声。
恋人の距離で囁かれた、あの言葉。
どうして…… 急に、あんな……。
思わず、足が止まる。
彼には、奥さんがいて、
私が踏み込んではいけない世界が、
確かに存在している。
その事実が、苦しかった。
「……好きに、なりたくなかったのに」
俯いた視界が滲み、揺れる。
罪悪感が胸を刺すのに、
思い返してしまうのは、
彼の腕が私を包んだ、あの一瞬ばかり。
背中に残る気配を思い出すたび、
抗えない想いが、
そっと痛みに変わり、涙となり落ちていった。
── 深夜 ──
物音で、真美は目を覚ました。
……帰ってきたわ。
寝室のドアをそっと開け、廊下へ出る。
手すり越しに階下を覗くと、
リビングの薄明かりが、夫の背を照らしていた。
声をかけようとして、ふと足が止まった。
彼女が退社した後、
静まり返った深夜のオフィスで、
自席の背もたれに、深く身を沈めていた。
彼女の背中から伝わった鼓動。
触れたら終わる距離。
彼女が別の男に見せた、
あの弱い表情。
そのすべてが、胸を締めつける。
スマホが震え、
画面には、妻の名前。
一瞬だけ目を伏せたあと、
いつもと変わらない、落ち着いた声で電話に出た。
『やっぱり今日も遅いの? 体は大丈夫?
……そばに誰かいる? 今……ひとり?』
夫を心配する優しい声の奥に、
かすかに混じる――
見えない鎖の音。
「……ああ、ひとりだ」
『……そう』
「もう帰るよ」
通話を切ると、
スマホを伏せたまま机に置き、
再び、静かに背もたれへ沈み込む。
無言のままネクタイを緩め、
普段は決して乱さない第一ボタンに
指を掛けたまま、動きを止めた。
「……由依」
彼女の名を口にし、
まぶたを閉じる。
「……もう ……戻れないのだろう」
制御できない感情を
噛みしめるように吐き出した独り言が、
理性の底を、静かに破った。
── ビルの外に出ると
夜風が、私の頬を撫でた。
胸の奥で、
さっきの出来事が
じわりと熱を帯びたまま、
鼓動は、まだ落ち着かない。
背中越しに感じた、彼の温もり。
耳元に落とされた、初めて聞く甘い声。
恋人の距離で囁かれた、あの言葉。
どうして…… 急に、あんな……。
思わず、足が止まる。
彼には、奥さんがいて、
私が踏み込んではいけない世界が、
確かに存在している。
その事実が、苦しかった。
「……好きに、なりたくなかったのに」
俯いた視界が滲み、揺れる。
罪悪感が胸を刺すのに、
思い返してしまうのは、
彼の腕が私を包んだ、あの一瞬ばかり。
背中に残る気配を思い出すたび、
抗えない想いが、
そっと痛みに変わり、涙となり落ちていった。
── 深夜 ──
物音で、真美は目を覚ました。
……帰ってきたわ。
寝室のドアをそっと開け、廊下へ出る。
手すり越しに階下を覗くと、
リビングの薄明かりが、夫の背を照らしていた。
声をかけようとして、ふと足が止まった。