消せない痕 ~甘く危うく、既婚者上司と崩れる理性~
静かな亀裂
ソファに腰を下ろした夫は、
ネクタイに掛けた指を、
途中で止めたまま動かない。

ただ疲れているだけ。
そう思えば、それで済むはずの仕草なのに。

でも……違う。
いつもと……何かが違う。

胸の奥で、
理由のわからない違和感が、
静かに広がっていく。

夫はゆっくりとネクタイを外しながら、
落とした視線の先で、
自分の腕を黙って見つめている。

まるでそこに、
何かの痕跡を、なぞるように……。

初めて見る夫の姿に、
声が出なかった。

……何を、思い出しているの?

その場に立ち尽くしたまま、
声をかけるタイミングを失い、
ただ黙って、
夫の背中を見つめるしかなかった。

静かに寝室へ戻ろうとした、その時。

夫が片手で顔を覆い、
ゆっくりと、深く息を吐く姿が目に入った。

その姿は、
自分の知らない領域で、
何かに追い詰められているように見えた。

……何?

不吉な予感が、
胸を掴んだまま、離れなかった。


── 翌朝 ──

キッチンには、コーヒーの香りが満ちていた。

いつもと変わらない朝のはずだった。

けれど、夫がダイニングに現れた瞬間、
その空気に、わずかな歪みが混じった。

「おはよう」

いつも通り、穏やかな声。

……でも、ほんの少しだけ、温度が違う。

「おはよう。コーヒー、淹れてあるわよ」

笑顔を向けたが、夫は視線を合わせず、
腕時計をつけながら口を開いた。

「今日、少し早く出るよ。
プロジェクトで、やることが多くて」

最近、そればかり……。

「……そのプロジェクトには、女性の方もいるの?
いつも遅いと、女性の方は特に大変ね」


── 俺は、
腕時計に触れていた手を止めてしまった。

昨夜、白石さんを包み込んだ熱が、
不意に蘇る。

いや……
何も、起きていない。
何も……。

「あなた?」

妻の声に、はっとする。

「大丈夫?……ほんとに」

心配する表情が、
何かを探っているように見えた。

「ああ……大丈夫。心配ないよ」

できるだけ自然に、微笑む。

「……そう」

妻も、同じように笑った。


── 夫が玄関へ向かう背中を、
静かに見つめる。

そうよ。

全部、気のせい。
……気のせい、よね。

けれど――

ドアが閉まる音と同時に、
家に残された静けさが、
不安をじわじわと増幅させた。


── 玄関のドアが静かに閉まり、
家の気配が背後で途切れた。

その瞬間、力がふっと抜け、
俺は深く息を吐いた。

これは、罪悪感なのか。
それとも、昨夜の余韻なのか。

自分でも、もう判別がつかない。

ほんの一瞬だけ眉を寄せ、
苦しさに目を伏せたが、すぐに顔を上げる。

部長としての顔を作り、
心を押し込めるように、歩き出した。


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