消せない痕 ~甘く危うく、既婚者上司と崩れる理性~
戻らない理性
── 社内 ──

エレベーターの扉が開くと、
すでにフロアには朝のざわめきが広がっていた。

それでも私の胸には、
別のざわめきが、渦巻いたまま消えない。

背中越しに感じた彼の体温も、
あまりに近すぎた距離も、
まだ頭の奥に熱を残している。

そんな自分の浮つきを戒めるように、
唇を噛んだ。

どんなに想っても――

そばにいることは、許されない人。

自席へ向かう途中、
すでにPCに向かっている黒崎部長の横顔が、
視界に入る。

その瞬間、
心臓をきゅっと掴まれたような痛みが走った。

仕上げてきた報告書を胸に抱え、
自分に言い聞かせる。

……仕事よ。
普通に……ただ渡すだけ。

そう思っているのに、
彼のデスクへ向かう足取りは、
情けないほど重かった。

「……黒崎部長、おはようございます。
報告書です。ご確認、お願いします」

彼は視線を上げることなく、
静かに報告書を受け取った。

「おはよう」

ページをめくる指先は落ち着いていて、
長く、綺麗で、
思わず視線を奪われる。

「……徹夜したのか?」

不意に落とされた低い声は、
冷静を装っているようで、どこか苦しげだった。

「えっ……あ、はい」

彼の眉が、わずかに動く。

「……そうか。よくまとめられている」

淡々とした褒め言葉なのに、
胸の奥が、じんわりと熱を帯びる。

「ありがとうございます」

声が震えてしまい、慌ててうつむいた。

うつむいた私を、
彼はしばらく見ていた気がした。

やがて、報告書を閉じ、
小さく息を吐く。

「あまり無理をするな。
白石さんに何かあったら……俺が、困る」

それは、いつもの冷たい言い方とは違って、
誰よりも近くに立っている錯覚を誘う声音だった。

分かってる、これは――

上司としての言葉。
プロジェクトのパートナーとしての言葉。

「……はい。気をつけ─」

言い終わる前に、
彼は静かに立ち上がった。
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