消せない痕 ~甘く危うく、既婚者上司と崩れる理性~
報告書を広げながら、
自然な仕草で、私との距離を詰める。

香りも、
呼吸も近く、
少しでもどちらかが動けば、
触れてしまいそうな距離。

彼はページに視線を落としたまま。

「ここだけ」

綺麗な指先が、
報告書の数字を指す。

「少し、調整してもらえるか?」

昨夜の残り火を
わざと隠しきれていないような

低く甘い声――。

「……はい」

数字を指していた彼の指が、
ゆっくりと紙面から離れ、
そのまま軌道を変え、
私の肩のすぐそばをかすめていく。

そして、考え込むように
親指が唇に触れ、
視線だけが、静かにこちらへ流れてきた。

言葉よりもずっと静かで、
ずっと熱い合図みたいに。

「急ぎではない。
昨夜は、眠っていないのだろう?
今日は、少しペースを落とそうか」

その眼差しは、昨夜の熱を思い出させ、
まるで、まだ終わっていないと
告げられているようだった。

そして――

ほんの一瞬の間。

その沈黙の温度ごと、
耳元へ落とされる囁き。

「……俺も、昨夜は眠れなかった」


── 俺の前で必死に緊張を隠す
彼女の仕草が可愛くて、
思わず、耳元に近づいていた。

昨夜、壊れかけた理性は、
今日になっても
どうやら元には戻らないらしい。


── 自席に戻ると、
相沢さんが頬杖をつき、
わずかに頬を膨らませながら、
ちらりとこちらを見てきた。

「いいなぁ。
仕事とはいえ、黒崎部長とお近づきになれて」

彼の名前が出て、心臓が跳ねる。

「……何ですか、……急に」

相沢さんは、
私のデスクに身を乗り出した。

「黒崎部長と白石さんって、チーム感あるよね。
なんかさ、空気でわかるんだよね。
仕事の呼吸が合ってるっていうか……
お互いを、すごく必要としてる……みたいな」

その瞬間、
昨夜、耳元で囁かれた彼の甘い声が蘇る。


―― 最後まで、俺といてくれないか。


「どうかした? 顔、赤いけど。大丈夫?」

覗き込む視線から逃れるように、
慌ててPC画面へ目を向けた。

「別に何も…… 平気です」

キーボードを打つ指先が、
かすかに震えた。


── 昼 ──

黒崎の妻、真美は
以前同じ部署で働いていた同期と、
久しぶりにランチへ出ていた。

ふと、同期が言った。

「ねえ、覚えてる?
私たちがまだあの会社にいた頃、ほら……
社内で大騒ぎになった不倫事件、あったじゃない」

突然の言葉に、
スプーンがカチン、と皿に触れた。
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