消せない痕 ~甘く危うく、既婚者上司と崩れる理性~
侵食する影
「……あった?そんなこと」

「忘れたの? あったじゃない!」

彼女は懐かしむように身を乗り出す。

「プロジェクトでずっとペアで動いてて、
気づいたら“そういう関係”になってたってやつ。
ほら、仕事の相性がいいと、恋に落ちやすいのかなって、
当時みんな噂してたじゃない」

プロジェクト――

小さな棘のようなものが、
胸の奥に静かに沈んでいく。

「そういえば、黒崎さんって、
昔から女性に人気あったよね。
最近の若い子って、
仕事できるし、可愛い子も多いじゃない」

片方の口角を、悪戯っぽく持ち上げる。

「素敵な旦那様を持つと、
心配も尽きないわね」

彼女は意味ありげに笑った。

「修司さんは……大丈夫よ」

真美は、言葉を選ぶように、
一瞬だけ間を置く。

「あの人は仕事一筋だし、
そんな浮ついたこと……」

そう言いながらも、
昨夜と今朝の夫の背中が、
ふいに脳裏をよぎった。

「知ってるわ。冗談よ!」

彼女はコーヒーカップに手を伸ばし、
ひらひらと手を振って笑う。

「あの真面目な黒崎さんに限って、
ないない」

そして、軽い調子で付け足す。

「それに、変なことがあったら、
すぐ気づくでしょ?
女の勘って、当たるし!」

鼓動が、わずかに早くなる。

まだ形にならない影が、
静かに、確かに、息をし始めた。


── 夕方 ──

ランチから帰宅したあと、
いつもと変わらない手つきで
家事をこなしていた。

少しでも手を止めてしまえば、
胸の奥に溜まった不安に、
呑み込まれてしまいそうだったから。

けれど、夫のマグカップが目にとまり、
手が、ふと止まってしまった。

彼の指が触れていた取っ手に、
そっと自分の指を重ねる。

まだ、ぬくもりが残っている気がした。

何かが、変わってしまう前に――

そのままマグカップを棚へ戻し、
スマホを手に取った。

夫の部署の近くで働いている、
顔見知りの事務員がいる。

退社前、
彼女と何度か一緒にランチをしたことがあった。

彼女に聞けば、
最近の夫の会社での様子が、
探れるかもしれない。

指は、吸い寄せられるように
文字を打ち始めていた。
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