消せない痕 ~甘く危うく、既婚者上司と崩れる理性~
目に入ったのは、
首元を差し出す森下と、
そのネクタイに指先を添え、向かい合う彼女の姿。

心臓が、
鷲掴みにされたような痛みが走る。

近すぎる――

俺は冷静を装い、
静かにドアを閉め、
なるべく落ち着いた歩調で自席へ向かった。


── 黒崎部長は、
私たちの横を無言で通り過ぎ、
自席に深く腰を沈めた。

左肘を肘掛けに預け、
長い指先が静かに落ちる。

腕時計が、
蛍光灯の光をひそやかに返した。

首をわずかに傾けたまま、
視線だけが鋭く、森下さんを射抜く。

会議室の空気が、
完全に彼のものに塗り替わった。

森下さんは慌てて資料をまとめ、
立ち上がりながら口を開いた。

「黒崎部長、お疲れ様です!
……プロジェクトの打ち合わせですよね。
すみません、すぐに出ます」

慌てたせいで、
彼のネクタイは
さっきよりもさらに歪んでいた。

森下さんは腰を折り、
私の耳元に身を寄せ、小さく囁いた。

「じゃあ、俺、行くわ。
更新した資料、白石さんの机に置いとく。
さっきの件、頼むな」

私は、こくりと頷いた。

その瞬間、
肘掛けから落ちていた黒崎部長の指先が、
ぴくりと、わずかに動いた。

そのことに、
私たちは気づかなかった。

森下さんがドアノブに触れた、そのとき。

低い声が、室内に落ちる。

「待て、森下」

森下さんは肩を強張らせ、振り返る。

「……はい。何でしょうか?」

黒崎部長は無表情のまま、
ゆっくりと彼のネクタイへ視線を落とした。

「……ネクタイ、歪んでいるぞ」

短く礼をし、
森下さんは会議室を出ていった。

ドアが閉まり、
室内が静まり返る。

私は、
黒崎部長の方を見ることができなかった。
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