消せない痕 ~甘く危うく、既婚者上司と崩れる理性~
彼は背筋を正し、
何事もなかったように資料へ視線を落とす。

部屋には妙な沈黙だけが残った。

私はそれを振り払うように、
手元の資料をまとめる。

紙のすれる音だけが、
静かな会議室に小さく響いた。

それからしばらくして、
私は黒崎部長と並んで、資料を突き合わせていた。

広げた資料の中で、
必要な数値を指で示す。

「黒崎部長、この数値ですが……」

そのとき、
自分の指先と彼の長い指先が、
わずかな距離で並んでいることに気づき、
そっと指を引いた。

次の瞬間――

わずかな後退を追うように、
彼の指先が私の方へ動き、
距離が、さらに詰まる。

「……っ」

驚いて顔を上げると、
彼の視線はすでに私を捉えていた。

まるで、逃がすつもりなどないと言うように。

逃げ場のないまま、
長く、深く、視線が絡み合う。

もし、私たちが恋人ならば――
このまま唇は、塞がれていただろう。

そう確信できるほどの距離と温度。

その熱に耐えきれず、
私は慌てて視線をそらした。

……手を、握られるかと思った。

名残惜しむように、
彼の視線が、ゆっくりと私の指先へ戻る。

もし――
私が、手を引くのをやめていたら……。

「……彼とは、同期だったか」

ふいに落ちてきた声が、低く刺さった。

「……はい」


── 俺は彼女に、
彼とはただの同期だと、
そう言ってほしかった。

付き合っているのかと、
問い詰めたい言葉は、
喉の奥へ沈める。

代わりに口をついたのは、
彼女を試すような一言だった。

「邪魔をしたか?」

消しきれない嫉妬を、
悟られないように。

「……いえ」

熱を帯びた指先は、
まだ彼女の近くに置いたまま。

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