消せない痕 ~甘く危うく、既婚者上司と崩れる理性~
静かな熱
── 転勤 二日目 午後 ──

午後から行われる、
黒崎部長主導のプレゼン会議のため、
私はコピー機の前で資料の準備をしていた。

その会議に、
私が呼ばれることはない。

黒崎部長は私に期待してくれている。
それに応えられる場所に、
早く立ちたいと思った。

その瞬間、
突然、風が吹き、
紙が一枚、はらりと床に落ちてしまった。

「あっ」

床に落ちた紙の横には、
丁寧に磨き上げられた革靴が、
照明の光を静かに返していた。

たまたま通りがかった黒崎部長が、
床に落ちた紙を見下ろす。

私が屈むより先に、
彼が紙を拾い上げ、差し出した。

無言のまま、
「拾いたかったのは、これだろう?」
と言わんばかりに口角をわずかに上げた。

昨日よりも、ほんの少し近い距離。

……近い?

心臓が、不自然な音を立てて跳ねた。

彼もまた、
ほんの一瞬だけ、
呼吸を止めたような気配があった。

けれどすぐに表情を整え、
人差し指を唇に添え、
午後から使う予定の会議室へちらりと目をやった。

数秒、考える素ぶりを見せ、
唇に添えた指をゆっくりと外す。

「午後からの会議、
白石さんにも参加してもらおう。
白石さんの資料分析の経験が必要だ。
意見も聞きたい」

「えっ?」

驚いた。

まだ二日目で、実力も見せていない私に。

「意見……ですか。
黒崎部長が主導の大事なプレゼン会議……。
私で……大丈夫でしょうか?」

不安が、思わず口に出た。

彼は、わずかに目を細めて言った。

「白石さんが、前の支店で作成した資料は、
いくつか事前に目を通してある。大丈夫だ」

仕事だと分かっていても、
胸の奥が、不意に温かくなった。

「……ありがとうございます。
期待に応えられるよう、頑張ります」


── 彼女の少しはにかむ表情。
その奥に、控えめだが確かな強さを感じた。

それが俺に、説明のつかない衝撃を与え、
気づけば、目をそらせずにいた。

上司として越えてはならない感情は、
無用なものだと押し込んだ。

だが、徐々に、
心は静かではいられなくなっていった。

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