消せない痕 ~甘く危うく、既婚者上司と崩れる理性~
ロビーに響いていた雨音は、
エレベーターホールに入ると遠のき、
静けさが、ふたりのあいだに落ちた。

「乗って」

エレベーターのボタンを押す彼の指が、
淡い光に照らされる。

「……はい」

私は数歩後ろに立ち止まり、
鼓動を抑えるように深呼吸をした。

扉が閉まると、
機械音がコトリと響き、
ふたりを包む空気が、わずかに沈む。

地下駐車場に着き、扉が開くと、
ひんやりした空気がふたりの間に入り込んだ。

彼は無言のまま、
迷いのない足取りで黒い車の前に立ち止まる。

薄暗い駐車場の中でも、
その漆黒の車体は、
光を静かに飲み込みながら佇んでいた。

まるで、静かに呼吸する獣のように――

彼がキーレスを押すと、
低い電子音とともにヘッドライトが淡く点滅する。

そして助手席側へ回り込み、
何も言わず、私に目を落とした。

視線が絡んだ一瞬、
心臓が跳ねる。

彼はゆっくりとドアを開き、
少し顎を傾けて言った。

「どうぞ」

静かで丁寧な動作。

そんな扱いに慣れていなくて、
体温が一気に上がる。

戸惑いながら座り込むと、
革のシートがふわりと身体を包み、
車内にはかすかにレザーの香りが漂っていた。

彼が静かに身をかがめてくる。

シートベルトを引き寄せる手が、
私の胸元の近くを通り、
彼の喉仏が、目の前で止まる。

カチリ、と鳴る音が、
静まり返った車内に、やけに大きく響いた。

近すぎる距離に、息が浅くなる。

整った横顔も、長い指も、
すぐそばにあるスーツの香りも、
意識せずにはいられない。

彼はほんの少し目を細め、
微笑んだ。

「行こうか」

紳士的な仕草のはずなのに――

心は、乱されるばかりだった。
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