消せない痕 ~甘く危うく、既婚者上司と崩れる理性~
濡れた境界線
── 車内 ──

雨粒を滑らせながら、
黒い車が静かに動き出す。

「あの……
いつも出勤はお車なんですか?」

彼は、ため息混じりに答えた。

「このプロジェクトが終わるまでは。
終電には、ほとんど間に合わないからな」

そして、一瞬だけこちらに視線を走らせ、
困ったように、やわらかく笑った。

「でも、車で良かったよ。
白石さんを雨に濡らさずに済んだ」

彼にとっては、
ほんの軽口だったのかもしれない。

けれど、その何気ない一言が、
私の鼓動をかすかに早めた。

「……本当に助かりました。
ありがとうございます」

それからは言葉を交わすこともなく、
車内には沈黙が落ちる。

フロントガラスを流れる水滴と、
ワイパーの一定のリズムが、
その沈黙をなぞるように続いていた。

「この道を、まっすぐ?」

視線を前に向けたまま、
彼が問いかける。

「はい、まっすぐお願いします」

低く抑えた声は、やわらかいのに、
どこか踏み込ませない気配がした。

彼には、帰る場所がある。

この優しさも、
ただ、傘のない部下を
放っておけなかっただけ。

それが、あるべき距離。

そう思うほど、
胸の奥が静かに沈んでいく。

「この辺り?」

見慣れた景色が、
窓の外に広がりはじめる。

「はい……その先の信号を右です。
そこで、止めてください」

彼はゆっくりと車を路肩へ寄せた。

ハザードの音と点滅が、
ふたりの時間の終わりを告げるように、
カチカチと静かに響く。

胸の奥に、
どうしようもない名残惜しさが広がった。

……でも、それはきっと、私だけ。

このときは、まだそう思っていた。
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