消せない痕 ~甘く危うく、既婚者上司と崩れる理性~
罪の余熱
リビングの灯りがぱっと点き、
妻が顔を出した。

「おかえり。
雨、すごかったわね。濡れてない?」

いつも通りの笑顔。

スーツが濡れていないか、
指先でそっと触れて確かめてくる。

俺は視線を合わせずに答えた。

「大丈夫。濡れてないよ。
……シャワー浴びてくる」

上着を脱ぐと、妻は微笑んだまま手を伸ばした。

その指先に触れられるのを避けるように、
俺は上着を自分の腕に掛けた。

妻はその仕草に視線を落とし、
ほんの一瞬だけ、眉を寄せた。


── 微かに、甘い匂い。

嗅いだことがない。

心が、静かに沈んだ。

「……いいよ。自分でやる」

夫は上着を抱えたまま、浴室へ向かった。

扉が閉まる音。
すぐに、シャワーの音が鳴り出す。

寝室には向かわず、浴室の前で足を止めた。

そっと脱衣所に入り、
無造作に置かれた夫のシャツを手に取る。

ただ、確認するだけ――

そう言い聞かせ、
息を整えてから鼻先に触れた瞬間、
知らない匂いが混じっていることに気づいた。

洗剤の香りじゃない。
香水でも、雨でもない。

皮膚の熱が混ざった、かすかな甘さ。

上着を渡さなかったこと。
視線を合わせなかったこと。

どこか、遠かった。

そして、
やけに強いシャワーの音。

でも、まだ――

そうであってほしくないと、
願っていた。

 
── 俺はシャワーを浴びながら、
壁に手をついていた。

真美の顔が、淡く浮かぶ。

けれど、
まともに思い出せない。

由依の熱だけが、
やけに鮮明に残っている。

とっくに流れ落ちているはずなのに、
触れた感触だけが、皮膚の内側に貼りついて離れない。

強く息を吐き、
シャワーの温度を上げた。
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