消せない痕 ~甘く危うく、既婚者上司と崩れる理性~
── シャワーの音が止んでから、
しばらくしても、夫は戻ってこなかった。

ベッドの上で上半身を起こし、
背中を壁に預けたまま、時計を見る。

そのとき、
ドアの向こうに夫の気配を感じ、顔を上げた。

 
── 浴室を出て、廊下の途中で足が止まる。

寝室までの数歩が、異様に重い。

正しい場所のはずなのに、
身体が動かない。

俺に触れる指先の感触。
耳元で落ちた、俺の名前を呼ぶ声。
抱き寄せたときの体温。

すべてが、この身体に残っている。

このままベッドに入れば、
彼女を抱いたまま、
妻の隣に横たわることになる。

意を決してドアを開けると、
ベッドの上で上半身を起こした妻が、
こちらを見た。

「少し顔色が悪いわ……大丈夫?」

その声は、静かな気遣いだった。

「ああ……大丈夫。もう寝よう」

無理に作った笑顔は、
きっと歪んでいた。

ゆっくりベッドに横になると、
妻は自然に寄り添おうと身体を動かしてくる。

反射的に背を向け、目を固く閉じた。
 

── 夫が背を向けたことで、
伸ばしかけた手を、そっと引っ込める。

「……疲れてる?」

返事はない。

触れられたくない理由。
冷たい背中の理由。

ばらばらだった違和感が、
一本の線になって、形を持ち始める。

それでもまだ、決定的な欠片が足りない。

そう思うことで、
私は信じる側に、踏みとどまっている。

目を閉じたまま、
夫の背中の気配に、意識を向ける。

呼吸の間隔。
背中の熱。
いつもと違う距離。

ひとつひとつは些細なのに、
今夜はどうしても、見過ごせなかった。

もし、何もなかったとしても。

確かめずにはいられない自分が、
静かに、ここにいる。

言いたいこと、
聞きたいこと。

いまは、
すべて喉の奥に呑み込んで、

ただ、夫の背中の気配を、
忘れないように、記憶する。

触れられない距離は、
同じベッドにいながら、
ひどく遠い場所のようで。

心を、静かに締めつけた。
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