消せない痕 ~甘く危うく、既婚者上司と崩れる理性~
正しく整えられたスーツとネクタイ。

片手はポケットに収められ、
視線はまっすぐ。

低く落ち着いた声も、
業務用として、完璧。

距離の取り方まで、
上司の顔を崩さない。

だから私も必死で、
いつも通りを装った。

ほんの少しの笑顔まで添えて。

「はい。大丈夫です」

次の瞬間、
彼の視線が、私の指先に落ちた。

そして私の目線に、すっと高さを合わせて、
そのままPC画面へ視線を移す。

……近い。

たった今、振り払ったはずの昨夜の熱が、
彼の香りと呼吸で、一瞬にして引き戻される。

「このファイル、開いて」

彼の長い指が、
私の指先のすぐ脇をかすめて、
画面の一点を示す。

「はい」

言われるまま、マウスをクリックする。

「そう……ここのデータ。
 もう少し、精査してほしい」

「……わかりました」

「それと……」

彼は、ちらりと視線を私に向ける。

「昨夜は……」

視線が絡み、心臓が早鐘を打つ。

「無理をさせたな」

周囲の人には、
仕事の労いにしか聞こえないだろう。

「あれは、俺の判断だ」

彼の視線が、
マウスに置かれた私の指先に落ちる。

「まだ……全部、残ってる」

ふたたび、逃げ場のない距離で視線が絡む。

昨夜を知っている、私たちだけの言葉。

胸の奥が、じわりと熱を帯びる。

私の目線に合わせていた彼は、
ゆっくりと身を起こし、
何事もなかったように離れていく。

仕事の顔を保ったまま、
昨夜が確かに存在していたという確信だけを、
私に残して。

ずるい――

それでも私は、
平然と立ち去るその背中を、
目で追わずにはいられなかった。



── 数日後 15:35 ──

フロアにざわめきが走った。
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