消せない痕 ~甘く危うく、既婚者上司と崩れる理性~
誇らしさの裏側
男性社員の震える声が、
静まり返ったフロアに異質に響いた。

「……すみません。
最終確認をして、クライアントに送信しようとしたら……
データが……消えていて……」

視界に入った彼の顔は、青ざめていた。

凍りつくように、周囲の空気が止まる。

クライアントとの契約の可否を決める最終調整の、
要となる仕様書。

数億規模の大型案件。

この計画は、
最初から最後まで黒崎部長が引き受けてきたもの。

落とせば——
責任は、すべて黒崎部長にいく。

提出期限は、今日の16:00。


── 残り25分。


「バックアップは?」

黒崎部長が、落ち着いた声で問う。

「……それが……原因が分からなくて……
どこを探しても……」

彼は必死にキーボードを叩き続けている。

声は震え、
遠目にも、指先が小刻みに揺れていた。

「落ち着け。状況の説明をしてくれ」

黒崎部長の声は
静かで、淀みなかった。

責める色はなく、
ただ事実だけを冷静に拾い上げていく。

説明を聞き終えると、
黒崎部長は、彼を真っ直ぐ見据えた。

「必ず、間に合わせる」


15:45 ── 残り15分。


黒崎部長は、そう言ったけれど、
もう、時間はない。

どう考えても、間に合わない。

……何か、方法はないの?

目を伏せ、あらゆる手段を必死に探る。

……待って。原本……!

私は立ち上がり、
彼の席へ足早に向かった。

口を開きかけた、その瞬間。

「紙の原本だ。探せ」

黒崎部長が、指示を出す。

「あっ!は……はい!」

彼は震える手で、
デスクに積み上げられた資料の山をかき分ける。

「あっ!……ありました……!
 ありましたっ!」

掴み出された原本が、
救いの旗のように高く掲げられる。

私が原本に手を伸ばした
その瞬間――
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