消せない痕 ~甘く危うく、既婚者上司と崩れる理性~
黒崎部長も、ほぼ同時に手を伸ばし、
彼から原本を受け取ると、素早く目を走らせる。

「確認した」

私に向けられた黒崎部長の視線が、
「できるか?」と問いかける。


15:50 ── 残り10分。


私は息をのみ、うなずいた。

黒崎部長から原本を受け取ると、
椅子に滑り込み、すぐにタイピングの姿勢に入る。

彼が必要な箇所を読み上げ、
私がそれを打ち込む。

プロとしての距離だけで、並ぶ。


15:55 ── 残り5分。


周囲の視線が、私たちに集まる。

静まり返ったフロアに、彼の声と、
私のタイピングの音だけが、鋭く響く。


15:58 ── 残り2分。


指先が、震える。

……もう
……間に合わない。

タイピングの手が止まりかけた。

そのとき――

あの夜に聞いた、
低く抑えた声が耳元に届く。

「大丈夫だ」

止まりかけた指が、わずかに動く。
けれど、震えはまだ消えない。

周囲の耳を避けるように、
彼の声が、ふたたび耳元に滑り込む。

「俺たちなら、できる」


ひとりじゃない――


その言葉が、不安に沈みそうな私の心を
強く、静かに押し上げた。

指先に残っていた震えが、
すっと引いていく。

小さく息を吐き、
ふたたびタイピングの速度を上げていく。


15:59 ── 残り1分。


── 残り30秒。


最後の入力を終え、送信する。

ふたりで画面を覗き込み、
《送信完了》の文字を確認する。


16:00 ──


「よし」

黒崎部長が、小さく息を吐く。

私も、ようやく息を抜いた。

プロとしての距離を保ったまま、
視線だけが静かに絡む。

「助かった。ありがとう」

「いえ」

そう答えながら、
私は、自然と笑っていた。

彼も、ほんのわずかに口元を緩める。

短い言葉のあと、
ふたりの間に、わずかな静寂が落ちる。

それを合図にするように——

フロアに、安堵の気配が広がり、
遅れて拍手が起こった。

その音を、どこか遠くに聞きながら、
私は、小さく息を吐く。

自席に戻ると、
こちらを見ていた隣の席の先輩、
相沢さんと目が合った。
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