消せない痕 ~甘く危うく、既婚者上司と崩れる理性~
息を呑む気配。

「でもね、ただ重いだけじゃなかったの。
どれだけ帰りが遅い日でも、
ちゃんと温かいご飯、用意してたみたいでね」

「うわ、健気……」

「体調を崩しかけてるときも、先に気づいて動いたりして。
黒崎部長、そういうの、自分で言わない人なのに、
……ああいうの、どうして分かるのかしらね」

「……すごいですね」

「そう、すごいのよ。
……ちょっと、分かりすぎてるくらいに。
彼女は……今も、ああいう感じなんじゃないかしらね」

短い沈黙のあと、
缶を口にする音だけが、響いた。

「黒崎部長って、仕事では違うけど、
恋愛では、押しが強いタイプじゃなかったわ」

「分かります。
誰かを追いかけ回すイメージ、ないですね」

「でも、そういうの嫌じゃなかったんだと思うわ。
優しいから、っていうのもあるのかな……」

言いかけて、わずかに言葉を濁す。

「受け止めた、って感じかしらね」

ふっと、小さく微笑む声。

「あれだけ想われたら、幸せよね」

幸せ――

その一言が、
胸の奥に、逃げ場のない現実として落ちてきた。

愛された結果、そこにいる人。
そこに、彼の幸せがある。

私は、音を立てないよう、
そっと席を立った。


── 帰宅後 ──

寝室に入り、電気もつけないまま、
バッグを床に落とした。

壁に背を預け、
ゆっくりと冷たい床に座り込む。

「……知らないままでいたかった」

彼と肌を重ね、
愛し合ったはずのベッドに視線を向けたまま、
視界が滲んで歪み、しばらく動けずにいた。

……私が入り込める場所なんて、
最初からどこにもなかった。

勘違いしては、いけない。

でも――

この胸の痛みを抱えたまま、
私は何もなかった頃の自分に、戻れるのだろうか。



── 翌日 ──

昼休みが終わり、
フロアが少し落ち着き始めた頃。

「白石さん」

背後から呼び止められる声に、足が止まる。
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