消せない痕 ~甘く危うく、既婚者上司と崩れる理性~
正解の形
振り返ると、
森下さんが軽く手を挙げて立っていた。

いつもの笑顔だけど、
どこかぎこちなく見える。

「今、少しいい?
……ふたりだけで話がしたい」

一度視線をそらし、
照れたように後頭部に手をやる。

「うん、いいよ」

深く考える前に、返事をしていた。

「屋上、行こう」

彼はそう言って、
人差し指を上に向け、軽く微笑んだ。

非常階段の扉が開くと、
ひんやりした空気が流れ込んでくる。

途中で誰かとすれ違うこともなく、
階段を上る足音だけが、規則正しく響く。

「屋上なんて、久しぶりだな」

「そうだね、あまり行かないかも」

「昔は灰皿があって、喫煙できたみたいだな。
今は、社内禁煙だけどさ」

「そうなんだ」

「この前の大雨、あれ最悪だったよな」

ふいに、あの夜の話が出て、
心臓が強く鳴った。

「黒崎部長に車で送ってもらえて、
ラッキーだったな。
俺、傘あってもびしょ濡れだったし」

「……うん」

最上階の手前で、彼は足を止め、
手すりに軽く触れ、ひと呼吸置いた。

「あのさ、今日……」

言いかけて、止まる。

「ああ、……ごめん。
……なんか、またどうでもいいこと言いそうになるわ。
さっきから、うるさいよな、俺」

「ううん、大丈夫」

でも、森下さん……なんか、らしくない。

そのまま、ふたりで最後の一段を上った。

屋上に出ると、午後の風が頬を撫で、
空は高く、雲はゆっくり流れていた。

下のオフィスの気配は遠く、
ここだけ時間の進み方が違うようだった。

彼は手すりに背を預けた。

「えっと……」

首の後ろに手を当て、
どう話せばいいか迷っているように見えた。

もしかして、
私に元気がないように見えて、
また慰めようとしてくれてるのかな。

彼は、背を預けていた手すりから離れ、
私の目の前に歩み寄ってきた。

「昨日のトラブル、さ……」

言いかけて止まり、
代わりに、息を吐いてから言い直した。

「やっぱり遠回しな言い方は、性に合わない。
直球で言うわ」

意を決したように、唇にきゅっと力を込めて、
真っ直ぐ、私を見る。

いつもの優しい表情は消え、
そこには一人の男の、抑えきれない感情があった。

「白石さんの隣に、
俺以外の男がいるの、嫌なんだ」
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