消せない痕 ~甘く危うく、既婚者上司と崩れる理性~
思いもよらない言葉に、
一瞬、息が止まった。

「この前の雨の日も、昨日のトラブルの時も、
白石さんの隣には、いつも黒崎部長がいてさ」

「ああ、俺、いつも後ろだな、って……」

笑ってみせるけれど、
その笑顔は、少しだけ苦い。

「で、気づいた」

彼は、柔らかく微笑んだ。


「白石さんが好きなんだ。俺と、付き合って」


風が吹き、
胸の奥が小さく鳴った。

「一緒にいて楽しいし、変に気を使わないし」

肩をすくめ、照れたように笑う。

「ずっと一緒にいたいって思った」


ずっと一緒に――


その言葉は、
これから先の時間まで連れてきた。

あまりに真っ直ぐで。
汚れてしまった今の私には、眩しすぎて、痛かった。

視界が滲み、揺れる。

「返事は、今すぐじゃなくていいからさ。
ちゃんと考えて」

正しすぎる告白は、
私の後ろめたさに、容赦なく突き刺さる。

きっと……これが“正解"なんだ。

彼の手を取れば、
普通の、真っ当な幸せに戻れる。

誰の目も気にしなくていい。
誰も傷つけずに済む。


これを、選べばいい——


「……うん。ちゃんと考える」

彼は笑顔でうなずいた。

「おう、待ってる」

「……待つけどさ。
答え出す前に、他の奴と付き合ったりするなよ」

冗談めかしたその笑顔が、
心の奥に、静かに爪を立てる。

「じゃあ、仕事に戻るか!」

彼は、晴れた顔で太陽を仰ぎ、
眩しそうに片目を細めて、大きく伸びをした。

「俺、先に行くわ」

そう言うと、私の横をすり抜け、
背を向けたまま軽く片手を振った。

そのまま、迷いなく歩いていく。

その背中には、
一切の淀みも、後ろ暗さもない。

まっすぐな光が降り注いでいた。

「うん、後でね」

彼が去ったあと、
屋上には風の音だけが残った。

私はその場に立ち尽くし、目を閉じる。

脳裏に浮かんだのは、
いまそこにあった、眩しい笑顔ではなかった。

息が詰まるほど湿り気を帯びた雨音の中で、
愛おしいものを見るような、
それでいて、どこか困ったような笑み。

私を見つめ、「嫉妬だ」と囁いた、
あの甘い毒のような、低い声。

あの場所は、
自分が壊れていく場所だとわかるのに。

今も、耳の奥で熱く響く。

まるで、消せない痕のように――。


──少し離れた場所で、
コンクリートに落ちた革靴の影が、わずかに動いた。
< 48 / 66 >

この作品をシェア

pagetop