消せない痕 ~甘く危うく、既婚者上司と崩れる理性~
終電のあと
── 夜 ──

フロアの照明が落ち、
残業組だけが点々とデスクに残っている。

私は、いつも通り、
黒崎部長と並んでプロジェクトの資料を確認していた。

「ここ、数値に乖離がないか精査しておいて」

淡々とした声に、「はい」と答える。

いつもと変わらない、はずだった――

「時間をかけても構わない。正確に。
ただし、今夜中に終わらせてほしい」

思わず手が止まる。

……今夜中?

「この数値、別案件とぶつかる可能性があるな」

組んだ手の親指で、ゆっくりと下唇をなぞり、
思案するように細められた瞳が、紙面を這う。

「今日中に、一応見ておいて」

えっ……今日?

「あの……その案件の提出期限は、まだかなり先ですが――」

「だが、抜けがあると後で面倒になる」

落ち着いた声なのに、反論の余地がない。

「確かに、そうですね……分かりました」

気づけば、今日でなくてもいい仕事が、
理由をつけて集められたように積み上がっていた。

こんなに一度に確認すること、あっただろうか。

少し不思議に思いながらも、
手を止める理由はなかった。

一段落し、時計を見ると、もう二十二時が近い。

彼は、別のファイルをめくってから、
思い出したように資料を差し出した。

「悪いが、これも頼む」

そっと差し出された資料の束に、息を呑む。

……こんなに?

しかも、やはりどれも期限に余裕のある案件ばかり。

「……結構、ありますね」

彼は一度ペンを置くと、椅子の背もたれに身を預けた。

人差し指を結び目の隙間に滑り込ませ、
わずかにネクタイを緩める。

そのまま視線が、こちらへ流れた。

「無理なら、俺がやる」

そう言われてしまえば、
「やります」と答えるしかない。

そのやり取りを、
森下さんが少し離れた席から見ていた。

けれど資料がさらに、もう一冊積まれた瞬間、
堪えきれなくなったように立ち上がり、私たちの前に出た。

「黒崎部長、差し出がましいんですが……
その案件、今夜中でなくても問題はないのでは」

丁寧な口調とは裏腹に、その目は真剣だった。
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