消せない痕 ~甘く危うく、既婚者上司と崩れる理性~
黒崎部長はペンを止めたけれど、顔は上げない。

「明日では、関係部署への確認が遅れる」

「でも、今夜中に仕上げて、
明朝確認しないといけない案件では――」

「遅れた場合を想定して動くのが仕事だ」

落ち着いた静かな声音。
理屈も通っている。

森下さんは言葉を飲み込み、
積み上がった資料を見たあと、私に視線を向けた。

「……終電、間に合いそうか?」

心配そうに眉を寄せる。

「うん……大丈夫」

自分でも分かるほど、心許ない声だった。

黒崎部長が、そこで初めて顔を上げた。

「……もうこんな時間か」

そう言いながらも、視線は時計には向けられない。

「終電には、間に合うように切り上げる」

その視線は森下さんには向けられず、
積み上げられた資料の山へと落ちた。

「森下こそ、明日に備えて早く帰った方がいい」

言い終えると、何事もなかったかのように、
手元の資料へ視線を落とし、ペンを走らせる。

森下さんは、一瞬だけ私を見て、
諦めたように息をつく。

「……分かりました。先に上がります」

目が合うと、困ったように目尻を下げ、
小さく頷いた。

――無理するなよ。

声には出さないその言葉が伝わってきて、
強張っていた肩の力が、少しだけ抜けた。


やがて――

最後の人影が消え、
遠くでドアが閉まる音が響いた。

静まり返った広いフロアに取り残されたのは、
私と黒崎部長だけ。
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