消せない痕 ~甘く危うく、既婚者上司と崩れる理性~
彼が動くたびに漏れる衣擦れの音。
資料をめくる、わずかな指先の音。

さっきまでは気にならなかったはずのそれが、
なぞるように、ひとつずつ、耳の奥に触れてくる。

……落ち着かない。

彼に気づかれないよう、時計を確認する。

終電まで、あと十分。

……間に合わない。
今夜は、タクシーか。

「今日の仕事、
念のための確認作業が多めでしたね」

冗談めかして言うと、
資料をめくる彼の指先が、一瞬だけ止まる。

「そうか?」

視線は上がらない。

「早く終わらせよう」

低く落ちる声に、会話はそこで途切れた。


やがて、最終電車の時間を過ぎた頃――

「そろそろ終わりにしよう」

「……はい」

彼は首の後ろに指を差し入れ、小さく音を鳴らす。

わずかに開いた唇から、吐息がこぼれ、
そのまま、重たげな視線がゆっくりとこちらへ流れる。

その無防備な仕草に、
フロアの空気が一気に、夜の体温に染まる。

鼓動がわずかに速まり、
この熱に、引きずり込まれそうになる。

逃げるように視線を外し、急いで手元の資料をまとめた。

それでも、彼の視線だけが残る。

ふっ、と、鼻で短く笑う気配。

「送るよ」

低い声が、熱を帯びて落ちる。

耳元で囁かれたような錯覚に、
心臓が跳ね、資料を重ねる手が止まった。
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