消せない痕 ~甘く危うく、既婚者上司と崩れる理性~
彼とのあの夜を、後悔しているわけじゃない。

でも――
そこは、私の正しい居場所じゃない。

これ以上、踏み込んではいけない。

そう自分に言い聞かせ、
片付けを再開し、顔を上げずに答えた。

「大丈夫です」

彼はデスクに肘をつき、組んだ指に顎を乗せ、
反応を試すように私を眺めている。

「もう終電はないだろう」

「大丈夫です」

食い下がる私に、低い声が重なった。

​「警戒してるのか」

​バッグにかけた手が、強張る。

「いえ」

席を立ち、バッグを肩にかけ、
座ったままの彼を見下ろして、もう一度。

「本当に、大丈夫です」

彼は、わずかに口角を上げた。

それは微笑みというより、
追い詰めた獲物を前にした余裕に近い。

「本当に?」

バッグからスマホを取り出し、
青白い光を放つ画面を彼に向けた。

精一杯の笑みを添えて。

「タクシーを呼びますので」

彼の視線が、
配車アプリを開く私の手元へ落ちる。

その鋭い視線に縫い留められたかのように、
画面に触れかけた指が凍りつく。

次の瞬間――

キャスターが床を滑る音が、静寂を裂いた。

鮮やかに発光していた画面が、暗い影に覆われる。

「……っ」

気づいた時には、
スマホを持つ手首を強く掴まれていた。

引き寄せられた勢いで、
彼のシャツの奥にある体温が指先に触れる。

あの雨の夜と同じ、
理性を溶かすような彼の熱と、香り。

呼吸が混じり合うほど近くで、視線が絡み、
心臓が痛いほど鳴る。

咄嗟に引こうとしたけれど、びくともしない。
彼の指に、さらに力がこもる。

「俺に送られるのは、そんなに嫌か」

押し殺した、低く、湿り気を帯びた声が、
逃げ場を塞ぐように絡みつく。

拒むべきだと分かっているのに――
視線を逸らすことすら、できない。

「……いえ」

「なら、意地を張るな」

至近距離にある彼の瞳が、
獲物を射抜くように鋭く光り、私の視界を塗り潰す。

正しさを選ぶ力が、足元から崩れ落ちていく。

私はスマホの配車画面を、自らの手で閉じた。
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