消せない痕 ~甘く危うく、既婚者上司と崩れる理性~
夜に溶ける祈り
── 車内 ──

夜道を走る車内は、静かだった。

規則的なエンジン音と、
アスファルトをなぞるタイヤの音だけが、
深夜の国道に溶けていく。

​助手席に身を置きながら、
幾度となく横目で隣を盗み見た。

彼の横顔は、いつも通り冷静で、
ハンドルを握る手も、安定している。

なのに――

車内の空気だけが、肌にまとわりつくように重い。

「……プロジェクト、今のところ順調ですね」

​沈黙に耐えかねて、無難な話題を投げた。

「そうだな」

短い返事。​

「今日の確認作業も、予定より早く片付きましたし」

「ああ」

​言葉を継ぎ足しても、どこにも引っかからない。
差し出した会話は、そのまま足元に落ちていく。

「かなり先まで見通しが立ちましたね」

「……そうだな」

絞り出した会話の糸は、あっさりと断ち切られる。

……私、何か間違えた?

フロントガラスに映る街灯が、
彼の横顔を一瞬ずつ照らしては消えていく。

赤信号になり、車が止まった、その時。
ブレーキの反動で、身体がわずかに前に揺れた。

​視界に、彼の手が滑り込んでくる。

​とっさに伸びてきたそれは、
私の体を遮るように、胸元の手前で止まる。

触れるか、触れないかの距離に、
​思わず、息が止まった。

顔を上げると、
彼は一瞬だけ視線を彷徨わせた。

​「……悪い」

彼の喉が、小さく上下する。

​「……いえ」

次の瞬間には、視線はもう前に戻っていた。

けれど――
ハンドルを握り直した手が、
ほんの一瞬だけ、強く締まった気がした。

さっき、オフィスで手首を掴まれた感触が、
まだ離れていないみたいに、皮膚の奥にじわりと蘇る。

「……あの」

声が、思ったよりもかすれた。

「ん?」

低く返る、一音。

さっきの残業は、本当に必要でしたか?

聞きたいのに、
言葉が、喉の奥でほどけていく。

顔を上げかけて――口をつぐんだ。


── マンション前 ──

車は住宅街へ入り、私のマンションの前で静かに止まった。
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