消せない痕 ~甘く危うく、既婚者上司と崩れる理性~
ふたりの間に沈黙が落ちる。
それはまるで永遠のように重い。

やがて、彼は耐えかねたように、
片手をゆっくり、私の肩の横――背もたれへ置いた。

助手席の狭い空間で、彼の大きな影に包み込まれる。

距離は、ほんのわずか。
視線が交わり、互いの呼吸の熱が肌をなぞる。

「詳しく」

真意の読めない視線。
なのに、声だけが、甘く穏やかに落ちる。

「……付き合って、欲しいと」

告げた瞬間、彼の呼吸が一拍、途切れる。

わずかな沈黙のあと、
耳元で低く、吐息が漏れる音がした。

その瞳からは一切の温度が引き、
逸らすという選択肢を奪う、冷えた眼差しに変わる。

「それで?」

うるさいほどの鼓動が、
ここは正しくないのだと告げる警鐘のように、
脳の片隅で鳴り響く。

「黒崎部長、私……帰らないと――」

拒絶を口にした直後。
彼の手が私の手首を、ゆっくり背もたれに押し付けた。

​力は強くないのに、
逃げる理由が、どうしても思い出せない。

​もう一方の手が伸びてきて、私の頬を包み込んだ。

触れる指先は、不自然なほど優しい。
存在を、ひとつひとつ確かめられているみたいに。

彼の親指が、私の下唇の輪郭を、じわりと這う。

「……由依」

不意に下の名前を呼ばれ、一瞬、息の仕方を忘れる。

それは、もう使われないはずの呼び名だった。

喉の奥が、きゅっと縮み、
静まり返った車内に、自分の鼓動だけが耳に響く。

あの雨の夜――
シーツ越しに伝わってきた、
私の輪郭をなぞる彼の指先の感触。

名前を呼ばれるたび、
激しく重なる互いの熱に思考が溶けていった記憶が、
一気に押し寄せる。

視線の揺れを、隠しきれなかった。

その綻びを見透かすように、彼はわずかに目を細めた。

「……ちゃんと、断れる?」

甘く、低く囁かれたその問いかけは、
私の頷き以外、許さない声音だった。
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