消せない痕 ~甘く危うく、既婚者上司と崩れる理性~
答えられない。

正しい選択をしたいのに、
言葉が出る代わりに目を伏せた。

目の前で、彼の喉が鋭く上下する。

彼の顔が、痛みを堪えるような表情に変わる。

「……森下を、選ぶのか」

手首を押さえていた力が、ふっと抜ける。
けれど、解放されたと思ったのも束の間。

「俺から……離れるつもりか」

彼の指先が、ゆっくりと滑り上がり、
手のひらを這う。

指と指が触れ、その隙間を埋めるように深く、
絡め取られていく。

​「俺をこんな風にしたのは、由依なのに……」

​指先に、力がこもる。

​「……迷わないでくれ」

​低く掠れた声は、祈り――
あるいは、ひどく身勝手な懇願。

彼の熱い指先に、
ゆっくり顎を掬い上げられる。

​彼の指から伝わる、金属の感触。
視界の端で、プラチナが鈍く光った。

​『ずっと一緒に』

​そう言って手を伸ばしてくれた、
森下さんの笑顔が脳裏をよぎる。

微かに視界が滲む。

彼が、誰かの大切な人であることも、
​森下さんの、あの真っ直ぐな言葉も、
罪ごと、深く沈めるように――

私は強く目を閉じた。

熱い吐息が混じり合った、次の瞬間。
唇に、やわらかな感触が落ち、舌先が触れ合う。

​「もっと……。だめ?」

​わずかに首を振ると、彼は短く息を吐いた。

​「……よかった」

震える吐息とともに漏れたその言葉は、
私の肌を震わせる。

​ふたたび唇は塞がれ、
互いの呼吸を貪るように奪い合う。

​「足りない。……由依、部屋に入れて」

​抑えきれない焦りを帯びた声と、
肌に伝わる彼の手の熱が、答えを急かす。

その熱が、私の中に残っていた最後の理性を、
削り落としていく。

もう――
引き返せる場所が、どこにも見えない。
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