消せない痕 ~甘く危うく、既婚者上司と崩れる理性~
ほんの一瞬、肩が触れた。

本当に触れたかどうか分からないほど、
かすかな感触。

それなのに、胸の鼓動が、
自分の意思とは関係なく高鳴っていく。

彼は、冷静に私から少し距離を取り、
画面から視線を外した。

「……悪い。
最近、少し集中力を欠いていて……」

「いえ……」

黒崎部長らしくない言葉だった。

優秀で完璧に見える彼が、
こんな声を出すなんて……。

私は思わず、彼の顔を覗き込んだ。

責任や期待、重圧。
それだけでは説明のつかない、何か……。

「お疲れですか?
あまり……無理をなさらないでください」

彼は、私の目を見据えた。

「……白石さんにそう言われると、
もっと弱ってしまうな」

その言葉のあと、
視線がほんの一瞬だけ揺れ、
いつもの余裕をたたえた表情に、
かすかなほころびが生まれる。

初めて見る、その揺らぎが、
私の胸を締め付けた。


── 俺は、どうかしている。

触れたかどうか分からないほどのかすかな接触に、
胸の奥が、ありえないほど強くうずいた。

「……悪い」

これ以上、近付いたら駄目だという、
自己制御の悲鳴だった。

「私、席を外しますね」

そう言って、彼女は視線を伏せた。

「ありがとう」

彼女が出ていくと、
空調の音だけが、
濃い霧のように会議室に漂っていた。

ネクタイを緩め、椅子にもたれかかると、
ため息が漏れる。

何度、部下だと自分に言い聞かせても、
胸の奥のざわめきは、
時間とともに静まるどころか、
少しずつ、確実に幅を広げていく。

どうにもならない想いを抱えたまま、
ただ静かに目を伏せた。

築き上げてきたものが、
ひび割れる音を、聞いた気がした。

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