消せない痕 ~甘く危うく、既婚者上司と崩れる理性~
悪意のない、どこまでも無邪気な憶測。

けれど――

そのすべてが、どれも現実に触れていて、
指先が冷たく震えた。

……違う。あの人は、そんなこと……。

否定しようとすればするほど、喉の奥が詰まっていく。

畳みかけるように、手元のスマホがまた短く鳴った。

《気になるならさ、会社に差し入れでも持っていきなよ。
普通に様子が見れるじゃない》

画面を伏せ、深く息を吐き出す。

……そんな必要、ない。

はずなのに――

胸の奥に生まれた、確かめたいという黒い影は、
真美の心に一滴、また一滴と毒のように滴り落ちる。

少しずつ濃くなっていく輪郭に、
呑み込まれないように、必死に押し込めた。

それでも――

​影はなお、じっとこちらを見つめている。


── 17時45分 ──

家の中に落ちる影が、
夕刻の深まりとともにゆっくりと伸びていく。

真美は、キッチンに立ったまま、
ぼんやりと手を止めていた。

包丁を握りしめたまま、
まるで時間が止まってしまったみたいに動けない。

夫の体に残っていた、うっすらとした赤。
シャツに滲んでいた、淡い汚れ。
名前の分からない、ほのかな匂い。

どれも曖昧で、決定的なものなんて何ひとつない。

けれど、友人が投げかけたあの一言が、
胸の奥に、抜けない棘のように残っている。

《浮気じゃないよね?》

夕闇の静寂の中、何度も浮かんでは沈む。

その時――

そんな必要はないと、一度は目を閉じ沈めたはずの言葉が、
息が詰まりそうな暗闇の中で、
唯一の光のように浮き上がってきた。

《気になるならさ、会社に差し入れでも持っていきなよ。
普通に様子が見れるじゃない》

――差し入れ。

「……そうよね」

包丁を握る手に、力がこもる。

「妻が夫に会いに行って、何がおかしいの?」

震える呼吸を整えるように、自分に言い聞かせる。

「頑張ってる修司さんに……ただ、届けるだけ」

まな板の上の真っ赤なトマトに、静かに刃を立てた。

「きっと……喜んでくれるわ。ね、修司さん」

真美の祈るような呟きとともに、
溢れ出した赤い汁が、拭っても取れない汚れのように、
指先をじわりと染めていった。
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