消せない痕 ~甘く危うく、既婚者上司と崩れる理性~
いつも遅くまで、ふたりきり──。

心臓を素手で掴まれたような鈍い痛みが走り、
視界が歪んだ。

元同僚の声が、まるで水底に沈んでいくように、
遠く消えていく。

知っている。

以前、事務の女性にさりげなく聞き出した。
新しく転勤してきた、有能な女性と組んでいる、と。

「聞いたわ。転勤してきたばかりの方でしょう?」

かすれた声が、なんとか形になる。

「そうそう。ええと、名前は……」

彼女は少し考えるような仕草を見せ、
思い出したように口を開く。

​「ああ、白石さん。仕事ができて、評判もいいのよ。
あ、もう黒崎部長から聞いてるわよね」

​――白石。

​その名前が、脳内で嫌な音を立てて反響する。

他人の口からその名前を聞くのは、これで二度目。

なのに。

夫の口からは、ただの一度も。

朝の穏やかな食卓でも、夜の静かな寝室でも、
その名前が語られたことはない。

​……ただの部下。

そう、ただの記号。

夫にとっては、話題にする価値もない、
仕事を円滑に回すための、取り替えのきく無機質な部品。
語る必要も、記憶に留める必要さえない背景。

仕事なら、二人きりになることなんて、いくらでもある。
こんなことで引っかかる自分のほうが、おかしい。

胃の底からせり上がる不快感を無理やり飲み込み、
すぐさま疑念を打ち消した。

エレベーターの上昇を示す無機質な赤いランプを、
射抜くような眼差しで見つめ返す。

やがて、乾いた到着音が鳴る。

フロアに降り立った瞬間、真美の視界に広がったのは──

夫が生きている、“もうひとつの日常”。
< 72 / 78 >

この作品をシェア

pagetop