消せない痕 ~甘く危うく、既婚者上司と崩れる理性~
夫は静かにノートパソコンを閉じ、
デスクにあった腕時計を無造作に手首へ滑らせた。

滑り落ちた金属のバンドを、
右手の指先で噛み合わせるように整える。

その指先を時計に添えたまま、ふと動きを止め、
低く抑えた声で問いかけた。

「急にどうした?」

口角は穏やかに上がっているのに、
視線だけが、わずかに遅れて追ってくる。

「連絡、なかったけど?」

責めてはいない。
けれど、歓迎もされていない。

その微妙な温度が、真美の胸に小さな棘を落とした。

「お昼ついでに、差し入れだけ」

紙袋を差し出す。

「みなさんでどうぞ」

一斉に、張り詰めていた空気が、
目に見えない糸のようにほどけていく。

「ありがとうございます」「いただきます」
明るい声があちこちから重なり、
波のようにフロアを満たした。

賑やかな歓声が渦巻く中、
真美は穏やかな笑顔を崩さず、
女性社員たちへと視線を滑らせた。

差し入れに沸く彼女たちの無防備な笑顔を、
ひとつひとつ丁寧に拾い上げ、
一人残らず、静かに記録していく。

その瞳の奥に、夫に向けられた特別な熱や
隠しきれない親密さが混じっていないか――。

元同僚は一つ手に取り、軽く手を振る。

「じゃあ、私はここまでね」

その声に、はっと意識が引き戻された。

「あ……ありがとう、助かったわ。また連絡する」

夫は近くの女性社員に、
菓子折を休憩室に回すよう手短に指示を出す。

その隙に、もう一つ。
小さな包みを差し出した。

「これは、あなたに……」
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