消せない痕 ~甘く危うく、既婚者上司と崩れる理性~
「さっきまで、プロジェクトの打ち合わせをしてたんだ」

夫の、何気ない一言。

その言葉より早く届いた、あの匂い――。

洗剤でも、香水でもない。

同じベッドに横たわりながら、
頑なに背を向けられた、あの夜。

寂しさに耐えかねて伸ばした指先が、
ただ冷たい空気を掴んだ。
激しい雨が降り続いていた、あの雨の日と同じ。

夫の肌に残る赤い痕と、
シャツに滲むベージュの淡い汚れを見た、
昨日の朝と同じ。

もっと近い、もっと内側の――
皮膚の熱を帯びたような、微かな甘い匂い。

それが、誰のものかを考えないようにするには、
もう、遅すぎた。

「……そう、プロジェクトの打ち合わせ、ね」


匂いと見えない存在が、いま、静かに繋がった。


わずかに乱れた、机と椅子。
ホワイトボードに残された、消しかけの文字。

そして、まだ消えきらない、淫らなほど甘い空気。

人の体温が溶け込んだような、生温かいぬくもり。

そこに、自分だけがひどく場違いだった。

真美は、表情一つ変えず、
笑顔を貼り付けたまま腰を下ろす。

「忙しそうね。ちゃんと休めてるの?」

サンドイッチの包みを開く手は、震えていない。

心配する声も、慈しむ眼差しも、完璧だった。

「気をつけてね」

妻として、いつも通り正しい形を保ったまま。

ただひとつ。

呼吸をするたびに、
生々しい匂いが肺の奥まで入り込んでくる。

まだ、ここにいる――。

他人の女が残していった気配が、
内側にへばりついて、どうしても追い出せない。

真美は、逃げ場のない残香に侵食されながら、
ひたすら浅い呼吸を繰り返した。

胃の奥からせり上がる苦い酸を、
笑顔の裏に押し込み、蓋をするように飲み下しながら。



☆エブリスタのスター特典にて
本編「場違いな祈り」では触れなかった
『会議室の残香』を公開中です。
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