消せない痕 ~甘く危うく、既婚者上司と崩れる理性~
理性の隙間
── 翌朝 ──

眠れなかった。

頭をよぎるのは、彼女の姿ばかりだ。

指先の距離。
微かな接触。
胸の奥に残る、あの温度。

このままでは、駄目だ。
浴室のドアを閉め、シャワーの温度を上げる。

熱い水が肌を打ち、背中を伝って、
筋肉に沿って滑り落ちていった。

濡れた前髪を片手でかき上げる。

体の感覚に意識を集中させ、
邪念を叩き落とそうとする。

だが、心の奥の片隅で、
何かが確かにうずいていた。

飢えと渇きが、
理性の底で静かに爪を立てている。

妻の優しさに包まれ、
日々の生活は、何一つ不自由なく整っている。

それなのに。

俺の中の獣は、
ほんの僅かな隙間を嗅ぎ取り、息を潜めていた。

拳を握り、理性を奮い立たせる。

仕事だ。
仕事だけに集中しろ。

皮膚が焼けるような温度と水圧で、
この不純で汚らわしい感情を、
すべて洗い流してしまいたかった。


── 社内 ──

出社し、ロビーに入ると、
後ろから駆け寄ってきた二つ下の後輩が、
当然のように私の横へぴたりと並んだ。

いつもの、距離の近さ。

「おはようございます」

私は歩みを止めないまま、笑みを返す。

「おはよう」

彼女は私の横に付いたまま、話し続けた。

「昨日、黒崎部長とずっと一緒でしたよね?」

朝から彼の名前を聞き、
心臓が小さく跳ねる。

「いいなぁ。
うちの会社の理想の上司ランキング、
堂々の一位ですよ」

「そんなランキング、あるの?」

「ありますよ。知らないんですか?」

「転勤してきてすぐだけど、
理想の上司だってことは分かったよ」

「ですよね。
常に冷静で、イケメンで長身。
いつも爽やかな香りがして……
はぁ……完璧すぎます」

みんな、そう思っている。

近くて、遠い人。

「そうね。
私も黒崎部長のことは――
……尊敬してるわ」

それ以上の感情を、
持ってはいけない。

「あれ? 顔、赤くないですか?」

彼女は口元に、
わずかな笑みを滲ませて覗き込んでくる。

「……そう?」

無表情のまま視線をそらしたが、
昨日の彼の弱った眼差しと、その温度が、
胸の奥にじわりと蘇った。
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