『顔も見たくない』と振られた御曹司に十年越しで執着されていました
 正気に戻った航生は、正体に気づかれたのをきっかけに、追い込まれている紗月の状況と自分の現状を冷静に照らし合わせ、この結婚を思いついたのだろう。

(昔から、実は頭の切れる人だったからね)

 結婚してから彼はあの夜の真意も、ふたりの過去についても触れてこない。紗月も切り出せないままでいた。

 それでも彼は優しいし、大切にされているのは伝わっていた。それが形だけの妻に向けられた配慮だとしても、冷たく距離を置かれるよりはずっとましだった。

(だめだ、寝るときにあれこれ考えちゃう癖、まだ抜けないな)

 紗月は布団を被ったままギュッと目を閉じた。

 
 意識の底で、オフィス特有のざわついた音がうねるように響いている。

 キーボードを叩く音、電話の呼び出し音、誰かの陰鬱なため息。それらが重なり合い耳鳴りがした。

――俺に意見できるくらいなら、これくらいの仕事、当然できるよな。ほら、これもだ。今日中に仕上げておいてくれ。

 坂本が吐き捨てるように、紙の束を紗月のデスクに叩きつける。乾いた音とともに、机がわずかに揺れた。

 それは以前、現実にあった光景だった。
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