『顔も見たくない』と振られた御曹司に十年越しで執着されていました
 堅実に生きてきた自分がこんな状況に身を置くこと自体、考えられなかった。今すぐ手を振りほどいて席を立つべきだろう。それなのに。

 理性とは裏腹に、紗月の体の奥で抗いがたい衝動が静かに渦を巻いていた。

 このまま流れに身を委ねてしまえば、自分の中のなにかが変わる気がする。今の苦しさも、やるせない初恋の記憶も、すべて置き去りにできるのではないか。

 そんな都合のいい期待を抱いてしまうほど、自分の心はもう、限界なのかもしれない。

(だったら、もう、いいのかな……)

 紗月は逡巡したあと、ゆっくり顔を上げた。

 真正面から向けられた大須賀の視線はひどく真剣で、その澄んだ瞳には、抑え込まれた熱情が静かに揺れているように見えた。

――だめ、早まらないで。後悔する。

 口を開きかけた瞬間、心の奥底で誰かが叫んだ気がした。それでも紗月はその声を聞かなかったことにする。

「いいよ……大須賀さんなら」

 紗月は絡まった指にそっと力を込めた。


 
 大須賀に伴われて店を出る。五月下旬の夜風が火照った頬を心地よく撫でていった。
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