極甘社長にほだされても二度と秘書はやりたくない
「お疲れさまでした!」
「お疲れさま。こっちこそ走り回ってもらって助かったよ。ありがとう」

お客さん先を後にして、宿泊先である京都の温泉旅館に向かった。この旅館は市内から少し離れたところでとても静かな場所にあった。雰囲気も良く、ここに泊まれるなら出張も悪くない。
今は藤沢社長と向かい合いながら懐石料理を食べている。
上品な味付けにしっぽりとした雰囲気の旅館は疲れを癒やすのにはぴったり。
ぴったりなんだけど……。

「本当は出張に来るのが開発部の子と広報の子だったんだ。実はその二人、もうすぐ結婚するし、部屋、一つしか取ってなかったみたいで」
「いえ、それはもう……別に社長の不手際でもなんでもないですから」

通された部屋は一部屋だった。
社長の言う通り、出張に来るはずだった二人は結婚間近なら婚前旅行ぐらいのテンションでも許されるかもしれない。だから、社長は悪くない。
とにかく、この時間から市内に戻るにはタクシーしか使えないし、週末はどこのホテルも一杯だ。
もちろんこの旅館も空き部屋などあるはずもなく。

「今日はもう寝るだけなので別に問題ないですよ」
「本来ならこんな忙しい出張なんて滅多にないから。本当に今回だけだから」
「はい、分かってます」

藤沢社長が言い訳するのも分かる。
そもそもこういう仕事って社長じゃなくてエンジニアの人がするものだと思っていた。それほど大事な顧客なのかなと思っていたらそういうわけでもなさそうだ。
大学時代に友人と立ち上げた企業というぐらいだから、藤沢社長もエンジニア上がりだということは分かったけれど……謎が多い。

「ほら、食べてよ。あ、ビールも追加で飲む? 日本酒の方がいい?」
「あ、じゃあビールお願いします」

普通なら初日からこんなにバタバタしているところを見せられたら、「この会社大丈夫かな」と思うところだ。
でも藤沢社長の仕事姿を見てしまうとそう思わなくなるから不思議だ。

「本当に今日はありがとう。来週からはちゃんと元の部署で働けるようにしておくから」
「はい、ありがとうございます。私も勉強になりました」

まだ完璧に在庫システムのことを理解したわけではないけれど、実際に現場で使っているところを見ればなんとなく使い方ぐらいはわかってきた。「習うより慣れろ」ということばに納得する。

「ふふ、坂井さんが入社してくれて良かったなぁ」

ふいに柔らかい声が聞こえてきて藤沢社長を見る。ほんのり頬が赤い。

「社長、酔ってます?」
「大丈夫、大丈夫」

そんなに飲んでいるわけではないから、藤沢社長はお酒が弱いんだろう。酔ってる人は大概そういうこと言うんだけど……まぁいいかと食事を終えた。

酔い冷ましに温泉に入って戻ってくると、部屋の中はキレイに片付けられていた。さすが高級旅館は違うなと思っていると、ふと寝室の方に意識が向いた。

(まぁ寝るだけだし……布団も別だし……)

二組布団が敷かれた和室を見てみると、すでに端っこで藤沢社長が丸くなって眠っていた。

(たった一日なのに、色々あったなぁ……)

はだけている布団をかけてあげる。
電気を消すと私も布団の中に入り、なんとなく藤沢社長に背を向けて眠りに落ちたのだった。
< 4 / 30 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop